「タトゥー・オブ・ギャラン」長編恋愛FT  隷属のタトゥーを刻まれた周子の呪主は口さえつぐめばイイ男、バカな国王ギャラン。シビアでトリッキーなラブアプローチ展開中、周子の召喚ミスにより端を発した、タトゥーに振り回される三人のなにやらいろいろと手順を間違えた恋愛模様、がっつだギャラン。 ---------------------------------------------------------- [tog]1:ミアム [「タトゥー・オブ・ギャラン」/長編/連載中] [最終更新日2008/01/15] ---------------------------------------------------------- 「あなたの所為よ! イビサ!」  蝶番が外れんばかりの勢いでドアを開けた、家に上がり込み、指を突きつけて、 「あなたがラッシュを、とんだ箱入りに育てたのが悪い!」  そう威勢良く罵倒し胸倉掴んで平手を一、二発……だがイビサを見たこの瞬間、シャアラはおどおどと視線を外し、なんて大それた事を考えたのかしらとたちまち後悔した。  この家の主たる彼の姿を居間に見るなり、その近寄り難い超然とした雰囲気に瞬時に萎縮したのだ。引いた血の気に寒気すら覚えた。 「……ああ、イビサ、ごきげんよう」  彼女の灰色の長髪はひどく乱れ、全力で走ってきたその表情は切羽詰っている。苦しげな呼吸を肩で繰り返し不躾に室内を見回す様子は、ごきげんようの言葉からははるかに遠い。  青ざめつつも、だがなんとか当り障り無く挨拶して寄越した娘の友人に、通り名イビサ、修三タチバナは無言で娘、周子のほうへ視線を投げた。  周子はといえば、目をまん丸にして飛び込んできた女友達を見たものの、飲みかけの牛乳を手離さず、グラスに口付けたままさらに一層傾けようとし……どうやら面倒そうな話を聞くより先に、飲みたいものはとっとと飲んでしまおうと思ったらしい。  空気を読まぬ娘のその軽薄さに、修三は知れず微笑んだ。 「ロンが、小さな女の子を人質にしてベースに篭城したの! ラッシュ、あなたを出せって!」  周子はそのまま牛乳を飲み干して口を拭った。 「人質? 篭城? で、私を出せって? なんで?」 「痴話喧嘩にも程があるわ。ロンがとうとう刃傷沙汰を。とにかくラッシュ、私と来て」 「うっわ、痴話喧嘩ならじゃあ他所でやってよもう、なに喧嘩したのよあんた達」 「あなたが当事者なのよ!」 「ええ?」  首を捻る周子をとにかく引っつかむと、シャアラはギクシャクと修三に一礼し、家を飛び出してゆく。左腕をキリキリと締め上げる熱い痛みに顔をしかめながら。 「……全く、私という恋人がありながら、ロンったら、まだラッシュをあきらめてないんだわ。ラッシュはこのとおりひどい恋愛音痴でぽややんとしてるし! よりによって刃傷沙汰だなんて……ゆうべ、おれには策がある、おれだっていざとなればあの美麗親父よりもはるかに切れ者だ、って意味不明な笑みを浮かべていたけど……」  私の体を抱きながら他の女のことばかり話すなんて、とシャアラは軋む胸の痛みに恋人ロンを詰った。 「だから痴話ってナニヨー!?」  自分に引きずられながらしきりに首を捻っているラッシュサマー、彼女をどうにも憎めないところがまた、辛い。三角関係ですら成り立たぬ不条理な事実が、シャアラの腕には刻まれていた。  隷属のタトゥー。  真の名を口にされ、次いでその相手が自らの名を名乗れば発動するという呪(しゅ)、ミアムの彼ら一族においては絶対の掟。  ロンに命じられのだ、ラッシュサマーを連れて来い、と。  左二の腕に刻まれたその名、隷属のタトゥーの呪主の命令は絶対なのである。 「ラッシュだ、あのラッシュサマーがきたぞ!」 「すっげえ綺麗だな!」 「みろよあの漆黒の髪!」  シャアラに引きずられようやく周子が姿を現すと、すでにベースの建物を取り巻いていた野次馬は口々に騒いだ。  その野次馬の中から、二人の男がわたわたと転がるようにして駆け寄ってくる。二人とも灰色の髪をした、周子と同じ年頃の若い男である。 「ラッシュ! こないだは悪かった、だからロンを止めてくれ!」  開口一番謝るなり、大袈裟な仕草で頭を下げた。  周子の黒目がやや驚いたようにきゅんと丸くなる、この二人の男よりも、いや女のシャアラよりもゆうに頭ひとつ分は小さい、可憐で華奢な印象、つやつやとした黒目とかすかに桜色を湛えた透き通るような白い肌、それが見上げてうん、と頷く、その可憐なことといったら、まるで天使か妖精のようである。  だが、その口から出た言葉は、 「べっつに怒ってないわよ、あんた達によってたかってヤられそうになったことくらい。結局返り討ち食らったのはあんた達だろが。私相手に力づくでだなんて、命知らずも甚だしい。死にたいのかと思ったら泣いて命乞いするから手加減してやったけど、二度目は無いわよ。……それで、なんの騒ぎだって?」  沈黙。 「それで、なんの騒ぎだって?」  黒眉を顰め、もう一度周子が聞いた。  一見可憐な美少女が訝しげに睨むその表情には、加虐的な、それでいて痺れるように甘美な、言うに言われぬ迫力がある。  十人とすれ違えば十人ともすぐさまハッと振り返る美少女だが、ここミアムにおいては、誰も振り向かないのがならいだ。すれ違って、ゆうに十歩ほどは距離を置いてから、改めてそっと振り返り、その小柄な背丈と敏捷そうで伸びやかな肢体、背に揺れる艶やかな黒髪に感嘆の吐息を漏らす、それがミアムのタチバナ、修三タチバナの一人娘、周子だった。  というのも、彼女の異性に対する態度は単純かつ一律で、気に食わない、ただそれだけ、声を掛けて寄越す男どもにもし下心があろうものなら、痛烈な拒絶の言葉とともに魔法なり体術なり、相手の無礼さに見合った一撃で返り討ちにするからだ。  見た目はウサギか何かのように可憐な小動物のようなのに、迂闊に手を出せば半殺しの目に遭う、周子の物騒さを我が身に思い出したのか、凍ったように沈黙した男どもの態度に周子はちっと舌打ちした。 「帰る」 「ろ、ロンが、お前の名を刻むと」 「私、奴隷なんて要らないわよ?」  取り付く島もなく、周子は拒否した。 「そ、そんでロンが、お前の腕に自分の名を刻ませると」  ぴゅぅ、と周子は高く短く口笛を鳴らした。 「この私相手にタトゥーの呪を刻むと?」  ふっくらとした薔薇色の唇が蔑笑を刻む。 「大きく出たな、あの馬鹿。脳みそ涌いてる、首から落としたほうがいいんじゃないの、頭」 「ななななあ、ラッシュ、お前やっぱロンとどうにかくっつ……」 「無理」  周子はキッパリと首を横に振った。 「ほうほう、相変わらず気位が高いの、その黒髪その黒目、艶やかな漆黒はまさに魔力の強さの象徴。さすがタチバナの百代目じゃ。その美しさ、父のイビサよりもはるかに良い値がつくのも然りじゃ」 「長老……申し訳ございません、このたびはロンがとんだ騒ぎを」  深々と頭を下げて畏まったシャアラを横目に、周子は口の端を思いっきり下げた。 「うッは、来たよ、ベースの強欲元締めババアが」 「しっ、く、口を慎め、ラッシュ」  二人の男友達が慌てて周子の腕を引き、頭を押して無理に下げさせたが。  長老、と呼ばれたベースの長は鷹揚に笑った。 「よい。タチバナの無礼は代々のことじゃ、この気骨のあるサマがまこと可愛いのじゃ。なぁんじゃ、この期に及んでまだロンでは不満だと抜かしておるのか、ラッシュサマー」 「この期も何も!」  周子はまた首を横に振った。 「なんでこんな騒ぎになってるのよ、ロンが人質とって篭城ですって? ありえない」 「お前があんまりにも待たせるからじゃろうて。焦らしすぎじゃぞ……のう、ラッシュサマー、この際だ、その腕にロンの名を刻んでしまえ」 「待たせてなんかないって! なにその婚約してますみたいな言い方! そもそもそんなん、父さんが許すはずないし!」  周子はたちまちぷうっと頬を膨らませた。 「冗談よしてよ、私はロンなんかのタトゥーを刻む気なんて、これっぽっちもないんだから! 父さんよかいい男じゃないと嫌。タトゥーを刻むに値しないね」  そう強く否定して、周子は長老を睨んだ。 「あー、なるほどこの騒ぎ、ひょっとしてロンをけしかけたのはあんただな?」  長老はたちまちにんまりと年季の入った笑みを浮かべた。狡猾さを存分に含んだ残酷な笑みである。 「ほほう、相変わらず勘が良いの」  ふん、と鼻を鳴らした周子に対し、畏まっていた三人は驚愕の声を上げた。  そんな彼らをまるきり無視すると長老は、おもむろに手を伸ばし周子の左腕を掴んだ。 「……未隷属とは、まこと美しい腕よのう」  そう呟いて嘆息して。  それは何かに憑かれたような不穏な声色だ。 「隷属のタトゥー、左腕に名を刻んだ呪主には絶対的な隷属を誓う、我らミアムの召喚の種一族における絶対的な掟じゃ、タチバナの血系のお前とて例外なく適用される。いい加減、ロンで手を打て。タトゥーの契約を結び、その腕に名を刻め。あの若造はお前の年代では一番マシな男じゃが」  そう言って、未だ名を刻んでいない周子の白い肌を、枯れ枝の如き指先で撫でた。 「齢十五にもなれば、みな刻むのが習わしじゃ。拒み続けてもう何年になる、我らが種においてはタトゥーの契約を結んでおらぬ未隷属の状態こそ危険なものじゃぞ?」 「結構」  周子は腕を執拗に撫でさする長老の皺だらけの手を払うと、ぶるりと身震いし、きつく睨んだ。 「私は、タトゥーの相手は自分で選ぶ、自分が惚れた男の名しか刻まないわよ、絶対に」 「強情よのう。恋情も知らぬ子供が大きな口を叩きおって」  そんな調子で一体いつになったら惚れたと申す男とやらが現れるというかのう、と恨みがましく呟いた。  黒目黒髪、タチバナの血系と呼ばれるその特殊な容貌には確かに、人の心を一瞬のうちに鷲掴みにしてしまう美しさがある。だがその美しい容姿に無頓着なのは、恋だの愛だのにまるで興味のない当人くらいなもので、痴話喧嘩どころか恋愛のれの字もピンとこないような幼いところがある。 「私、そんなに高値で取引されてるの?」 「父イビサの十倍の値がついておる」 「は! ボッタクリだね!」 「ボッタクリだのう!」  長老は、腰に手をあて軽くふんぞり返った周子の言葉そのままに繰り返してみせた。  周子の振る舞いに付き合うほどには十分に冗長、それは周子の、時には空回りなほどの気の強さ、無礼ともとれる態度にすら、とりわけ過分に目をかけている証拠といってよかろう。 「召喚の種は、ベースが依頼主と交わした契約に基づき召喚される。ひとたび召喚されればその依頼主のどのような願い事をも叶える、いわば天使のようなものじゃ。お前はその中でも最も高位、タチバナの百代目、それ相応の値がつくのは当然じゃ」  おまえのその生意気な減らず口と、依頼主の心の隙を突く頭の回転の速さは、天使というよりもまるで悪魔じゃ、先の召喚はまこと上手いことやらかしたものじゃ、と長老は上機嫌に誉めた。  ミアムは”召喚の種”という魔法を行使する種族を輩出する、きわめて特殊な国である。その異質さゆえ周囲の大国が手出しできぬほどの”強国”だが、その規模は国というよりもベースと称される派遣機関を中心とした小さな集落、自国の魔法使いを派遣しその対価で以って国を賄う仕組みとなっている。 「とりわけお前を召喚したがる輩は金持ちで、そして物騒じゃ。高値を吹っかければかけるほど、面白がる。高ければ高いほど売れるとは面白いものじゃ。地獄の沙汰も金次第、ベースはお前を抱えて大繁盛じゃ」 「じゃ、もう十分稼いだんじゃないの?」  さばさばと周子は聞く。 「稼いだのう、この小童どもが一生かけて稼ぐだけの契約金を、お前はたった二度の召喚ですでに凌駕しておる、格が違う」  鷹揚に頷いて、長老はシャアラ含め眼前の三人を顎で示した。  その仕草に滲むのはむしろ蔑み、取るに足らぬ者に対する心無さ……周子は、この老人のこういった態度こそがこの世で最も嫌いだった、召喚の種をまるで道具としてしかみていない。 「ラッシュサマー、真の名を明かせ。どれほど魔力の強い者でもベースに逆らうことは許さぬ。タチバナのお前とて然り。イビサはあのとおりの手に負えぬ変人じゃが、あの気狂いはともかく、お前はまだ若い、しかもタチバナの百代目じゃ、その絶大な魔力はなんとしてもベースに隷属せねばならぬ」  ふん、と周子は鼻を鳴らした。  決して悪いようにはせぬ、とまだ物心もつかぬ幼き頃より幾度となく問われ誘導され乞われ、あるいは時には脅された、己の真の名―――”周子”。  絶対に名を明かしてはならぬ、ときつく父親に言われてきた。  物心つくまで、いや、名を明かしてはならぬとの鉄則が周子の魂に刻まれるまで、父修三はいついかなるときも周子を傍から離さなかった。  ―――その用心深さは、むしろ狂執といっても良い。 「父さんを気違い呼ばわりするなんて」  そんな陰口も、周子を守るものだと、彼女は信じ疑ったこともない。 「あ奴は世情を超越しとる。あの男が唯一言うことを聞く相手は実の娘のお前だけじゃ。お前を安全に養うためだけにイビサはミアムに籍を置き召喚に応じておる」 「父娘二人暮らしですもの、自慢じゃないけど結束は固いわよ」  結束? と長老は小馬鹿にしたようないやあな笑みを浮かべた。 「……つくづく子供じゃの」 「なっ、なによ、むかつくね! タトゥーがなくったって召喚に応じてやったじゃない、莫大な契約金でベースとこの国に繁栄をもたらしてる、この私に何の文句がある? その上名を刻ませようだなんて、貴様無礼にも程があるよ!」  文句あっかこんのクソババア、と途端に激昂した周子の腕を、男友達が二人がかりで慌てて押さえた。 「ぶ、無礼はどっちだラッシュ、長老様になんと無礼なことを。お前は父親が絡むと途端に凶暴になるな」 「だって!」  長老は動じず、周子を正面から見据えると、 「まこと、気位が高いの、ラッシュサマー」  低く威圧感のある声で唸った。  細く引いた目には、対峙する者にだけ分かる物騒な重力を秘めた殺気が光っている。 「タトゥーの呪は召喚契約よりもはるかに拘束力が強い。命を賭す呪じゃ。お前に名を刻みベースは確実にお前が欲しい。可愛いお前の頼みならば、イビサは一もニも無く無条件に己が呪竜を抜くじゃろうて」 「呪竜」 「おうよ呪竜じゃ」  そう言って長老は冷酷に笑った。 「タチバナの血系に眠る呪竜、おまえのそれはさぞ美しいじゃろうの」  正直、お前が刻む名は誰の名でも良い、と長老は吐き捨てた。  周子の黒目が竦んだように小さく丸くなる。 「お主はまだまだ子供じゃ、赤子の手を捻るようなもんじゃ。だがそれではイビサは二度とミアムに利することはせんじゃろう。わしの真の敵はイビサじゃ。あやつの呪竜を抜かぬ限り、なんぼお前を縛り奴隷に貶めようとも意味を為さん。揃えてこその百代じゃ、一代たりとも欠けてはならぬ。百匹の呪竜を抜くまで、百代ものタチバナの血系を為すまで、いったいどれほどの時を費やしたと思うておる」  ―――いったいどれほどの時を? 「ひ、」  ぞっとする何か予感めいたものに、周子は一瞬、息を呑むのか吐くのか分からなかったが、 「人の恋路にちょっかい掛けンじゃないわよ、往生できないわよ、クソババア! なんなら私が地獄への片道切符を切ってやりましょうか!」  勢いよく制止の腕を振り払い、詠唱を始め印を結びかけたが、 「わあっ、ラッシュ、なんてこと言う!」  再度大慌てで飛び掛ってきた友人達に、三人がかりでべしゃりと地面に押し潰された。 「うぐぐ……ちょっと、あんた達、どっちの味方よ。このクソババアはロンをそそのかしたのよ! 頭に来ないの? タトゥーの呪で縛ってさ! あんたたちは自分達が飼い慣らされてるって、なんで思わない? 情けなくないの、道具みたいに扱われて、何が天使よ」 「タトゥーの契約こそ、我ら召喚の種の生きる理由だろが!」  だが返って来たのはミアムの掟たる常套文句。 「おれたちは惚れた相手に望んで隷属してるんだ、何も疑問に思うことは無いんだよ! 隷属の タトゥーさえ刻めば、己が一切の論理はただひとつ呪主に利することのみ、こんな悦楽が他にあるか!」 「つべこべ言うな、刻めば分かる! おれ達ミアムの召喚の種は、タトゥーを刻んだ相手に尽くすことを信条とする、愛に生きる気高き種族だ、ってな!」  畳み掛けるように口々にそう言われ。  周子はじたじたと暴れた。 「なっ、なにその無茶苦茶な〜! いや、待って待ってよ好きな相手ができたらタトゥー刻んでもいいって私最初から言ってるじゃん、つまり好きな人がいないんだからしょうがな……」 「ロンを好きになれ、そうだこの際ロンに惚れちまえ! 手順はこの際もうどうだっていいだろが。刻め、今すぐ刻め! 刻むのが先だ、刻んじまえば後は呪がロンに惚れさせてくれるさ! 心配すんな」 「ナンダソレ! 畜生そこは譲んないよ絶対、だったらそんなに刻みたいんなら父さんを超えてみやがれこんのヘタレども」  ぎゅむぎゅむと押しつぶされながら、周子は叫んだ。 「……まったくあなたの恋愛音痴は筋金入りね」  三人がかりで押し潰したその一番上で、シャアラはやれやれと嘆息した。 「生まれてこのかた、誰も好きになったことが無いだなんて。情の欠落した世間知らずという陰口も、妥当すぎてフォローのしようが無いわ。そもそも、イビサの育て方が間違ってる」  ミアムの召喚の種は、情が豊かで細やかだ、一人と定めるまでは恋も多い、その生来の気質から恋情を殺ぎ落とすなど、父親としてあり得ぬ所業だ。一体どう育てればこんな欠陥品ともいえるまでに恋情に疎い娘が育つのか。  その父親イビサ、実力で言えばミアム一腕の立つ魔法使い、いかに厄介な任務でも確実に履行する切れ者であり、人間はもとより残忍劣悪な魔物と対峙しても確実に始末すると聞く。漆黒の双眸に宿る静かな獰猛さ、まこと底知れぬ物騒さ、近寄り難いオーラを放っているのだが。  ―――ラッシュも長ずればあんな異質な感じになるのかしら、  シャアラはその血を思う。  黒目黒髪は圧倒的な魔力の強さを示す身体的な特徴、ミアムにはイビサとラッシュ、この二人しかいないのだ。この二人の共有する世界とは一体どんなものなのだろうか、そこには決して外の者には理解できぬ何かがある、決して踏み込むことの出来ぬ領域、それを思うとシャアラはぞっとした。  ―――イビサはひょっとして、ラッシュを誰にも与えぬつもりではなかろうか 「ああ、なんかもう、ばっかみたい……帰ってお風呂入って寝よう」  よろよろと三人の体の下から這い出すと。  乱れた黒髪をばさり、と振って。ふう、と息をつく。その様子はどうにもこうにも全く気の無い様子、悪気がないものの冷酷にすら感じられる軽薄さ。 「んじゃねー、ばははーい……うをっ!」  腰にタックルされてよろめいた周子は目を三角にした。 「なんでシャアラがこうするかな! いい加減怒るよ?」 「ラッシュ、今となっては腕に名を刻んでいないのは、この国の中でもたった三人、ロンと、あなたと、あなたの父親のイビサよ。未隷属であることがどれほど危険なことか。もし万一、意に染まぬ相手に名を刻まれでもしたらどうするの、とんでもない無理難題を吹っかけられて、いいえあなたみたいな美少女、奴隷どころじゃないわ一体どんな目に遭わされるか」 「解くよ」  キッパリと一言。 「私が刻むのは好きな人の名前だけ、って決まってるもん」  さっきからそう言ってるじゃーん? と軽く笑い飛ばした周子、あまりにも素朴過ぎるその論理に、シャアラは目を剥いた。 「! タトゥーの呪を解けるはずが無いじゃない!」  シャアラはぶるり、と身を震わせた。  どうしてあなたはそんなに強いのに肝心なところで無防備なの、と痛ましげに周子を見つめてくるその瞳には、困惑の滲んだ親身な色がある。  まっすぐな灰色の髪が色濃くその額に頬に影を落として、周子は数秒の間シャアラに見惚れた。  周子はシャアラが好きだった。  同い年ながら姉のような存在だ。あのロンには本当に勿体無いと思う。 「私なんかよりもシャアラの方がよほど良いと掛け値なしに思うよ? どうしてロンがここまで私に執着するのか、さっぱり分からん。絶大な魔力を誇るこのタチバナの血系に自分の種をねじ込む、そんなことの一体どこがよいのか、ほんっとに私は分かんないよシャアラ」  シャアラは周子の手をとった。 「ラッシュ、あなたは強情を押し通して、とうとう未隷属のままで召喚された。上手いこと契約を果たして無事ベースに還ってきたけれど、私とても心配してたのよ、あなたは時々魔力が使えなくなるから」  そう言って、周子の呪いの指輪に目を落とす。  強すぎる娘の能力を父イビサが封じたのはミアムでは有名な話だ、その指輪の所為で急に魔力が使えなくなったことは一度や二度どころではないし、何度か危ない目に遭ったことだってある。そして、完全には封じきれずほとんど博打とも言える確立で強烈に発露する、却って物騒な存在になったその絶大な魔力はいわば伝説であり、周子を召喚することに国外の諸侯をより一層躍起とさせた、それこそ莫大な契約金を貢がせて。  むしろ奇妙な価値を高めたようにすら思える、そんなイビサの意図がシャアラには全く分からない。  だが。  こうして接する限り、この娘はただの娘で悪気の欠片も持ち合わせていないのだ。  思わずシャアラは胸の中の己が本音中の本音を口にした。 「あなたに名を刻むべき男が出来ないのは、どう考えてもあの父親の所為。あんな男が傍にいたんじゃどんな男も翳むに決まってる。好きな相手なんて一生できっこないわよ、あんな美形、はっきり言ってとんだ災難よ」 「? 殴られたいの、シャアラ?」  きょとん、と周子は首を傾げた。  シャアラの中に絶望がはっきりと形を成した。 「いつかあなたにだって好きな相手が出来ると私は信じてたけど」 「うん信じてるってば、私も」 「ラッシュ、私は過去形で言っているのよ」  ああ、とシャアラは大仰に空を見上げた。 「そんな出来過ぎな男を越える男など、果たしてこの世にいるものか」 「うえぇぇー?」  そりゃひどい言い様だ、と周子が仰け反った。  その様子はどこまでも子供じみていて。  その基準が最初から雲の上なのだ、この娘がそこいらの男に心揺れるなど到底ありえない、ましてロンに勝ち目など万にひとつもありえない、その事実をシャアラははっきりと悟って。 「ロンの名を刻みなさい」  タトゥーの呪を刻んで相手の望むがままに楽しく幸せに凡庸に暮らすのだ、そのほうがよほど生き易い、とシャアラは切々と説いた。  周子の目が驚いたように丸くなる。 「だってシャアラはロンが好きじゃない、タトゥーの原則は一対一だってベースだってそう言ってる、あのクソババアはともかく、番で刻むのが掟だってそんなの常識じゃん、ロンの馬鹿はシャアラの名前を刻んでそれで円満解決じゃんよ。もういい加減ロンの奴の首締め上げてそうさせるからさ私ちょっくら行ってとっちめてくっから待っ……」  ラッシュ、とシャアラは腕まくりせんばかりの周子を押し止めた。 「……私はロンが好きよ、このタトゥーだって後悔してない。ロンを好きだから彼に名を刻んでもらったのよ。ロンのためだったら何でもする、ロンはあなたが好きなんだもの、仕方ないわ、私は彼の願いを聞き入れるしかない、ねぇ、ラッシュ、どうか彼の女になって!」 「ちょっ」  唐突にシャアラの言葉に熱っぽさが増した。  その瞳に懇願の色が強く滲んで。縋るシャアラの手に、力が入った。 「彼の名を刻んでやって! どうか彼に抱かれて!」 「シャ……」  必死に縋るシャアラに周子は沈黙してしまった。  タトゥーの効力をそこに感じて。  自分の好きな男に他の女を抱かせて平然としていられるものか。  ―――隷属のタトゥーはこうも無残に人の気持ちを踏みにじる。  恋情を枷に、相手の望みならばどれほど理不尽なことであろうとも受け入れさせる。軋む左腕を押さえて地面にしゃがみこみ、嗚咽を漏らしたシャアラを見下ろして。  左腕にキリキリと響くその強い熱い痛みは。  胸の空洞を埋めんと欲する激しい渇きは。  決して恋情ではない。  恋情に良く似せた、隷属のタトゥー、ただの呪だ、相手に隷属させるただの仕組みに過ぎない。  ―――こんなものに振り回されて、何が”愛に生きる気高い種族”だ。  周子は沸々と込み上げてくる怒りで肌が粟立つのを感じた。 ---------------------------------------------------------- [tog]2:隷属のタトゥー [「タトゥー・オブ・ギャラン」/長編/連載中] [最終更新日2008/01/16] ----------------------------------------------------------  泣き崩れたシャアラを後ろに、ようやく周子はロンの方を見た。 「よぉ、ラッシュ」  ベースの建物の入り口を占拠し、血走った眼で小さな女の子の首にナイフを突きつけているロンのその様子は、最悪の惨事を予測させるに十分すぎる迫力だったが。 「ねぇ、とにかくその子、放しなさいよ。泣いてるし。あんたそんな小さな子を人質にとって自分が恥ずかしくないの? 見てる私はすッさまじく情けないよ?」  周子を躊躇させるには全く足りなかった。  うええ、情けなくて見てらンない、と長い黒髪をぱさぱさと振って。  ばかー! 挑発するなー! ラッシュ、と、後ろで叫び声が上がったが。 「そんな子供盾に取ったって変わらないわよ、私はタトゥーを刻まないなんて言ってない、ただ私が従うとすれば私が認めた男だけ、私が本気出せばあんたなんか瞬殺よ、瞬殺」 「ぐぐっ」  そのあたりの力の差は明らかなのでロンは悔しそうに唸った。 「ラッシュ、いいや今日こそはおれの言うことを聞け」 「嫌」 「す、すげえむかつくな、こんの情知らず。おれがこんな真似をしたところで、そう強気に出てくることくらい、よーく分かってら! 伊達に長いこと片想いしてるわけじゃねえからな!」 「わかってんならやめればいいのに」  そう言ってしまえばまさに身も蓋もない。残忍なまでに率直な周子の言葉といってよかろう。  四歳だぞ、四歳、おれは人生最初にお前に告ったときのあの衝撃が今でも忘れられねぇ、あんなに木端微塵に振るたぁ、お前はヒトじゃあねぇ、あれから何べん告ってると思ってんだおれの気持ちをちったぁ汲めよ、とロンは過去の数々の恥辱に肩を震わせた。  周子は首を捻り、ふーん、と微妙な返事をして。 「そういうのはきっと、片想いじゃなくて、トラウマ?」 「ああそうだろうよ! ちっくしょう!」  会話はどこまでも平行線、交わろうとする気配すらも無く。  あるのはとことん気の無い素振りの周子、軽薄な沈黙だけ。  ロンは人質の首にあてたナイフをちらとも緩めず、一枚の紙を周子に突きつけた。 「読め!」 「読め? ったくエラそーに」  周子は紙に書かれた文字を目で追って、さらにまた首を捻った。 「リィアード・リルケルム……で? なにこれ?」  ふっ、とロンは不敵に笑った。 「おれの真の名だ」 「……。へぇ。いい名前じゃない。ずいぶんと男前な」  周子は感心したように微笑んでみせた。  それから、その綺麗な黒眉を片方だけくにゃりと顰めて、 「でも真の名だなんて他人に洩らしちゃマズイでしょ。聞かなかったことにしてあげるからさ?」 「察しろよ!」  ロンは叫ぶ。  ぐっ、と少女の首に突きつけたナイフを一層近づけた。  彼の手にしたナイフの切先が少女の首にふつりと血の珠を為すのを見て、さすがに周子は眼差しを厳しくした。 「おれの名は明かした。さあ、次はお前の名だ。ラッシュサマー、お前の真の名を明かせ!」 「……絶対イヤ。誰があんたの名なぞ刻むものか」 「こんな状況でもお前は折れないか」  軽くナイフの切先を引くと、周子の注視に厳しさが増すのが分かった、こう強気でいてみせて、だが小さいものには存外優しいところがあるのも、ロンは良く知っている。泣き叫ぶ少女の声と滴り落ちた血に、彼女が内心はらはらしている、その手応えならば十分にある。  だが。 「折れないね」 「こ、この状況でもおれたちの力関係が変わらないというのはくそうなんだこれ」 「魔力の差かね」  絶望的とも言える宣言を下した。  周子にとってはただの事実、だがそれが彼女にとっての友人を多く失わせてきた。ここミアムでは魔力の強い者こそが価値をもつ、彼女の特殊な血系こそミアムの誰もが渇望し、叶う事ならば手に入れようとしたものだ。 「おれはお前が好きなんだ、お前のものになりたい、お前のためだったら何でもする」 「絶対イヤ。誰があんたの呪主になぞなるもんか。使役獣としてでも要らん」  熱っぽいロンの懇願だが、周子は再度キッパリと拒否した。 「シャアラの腕に名を刻んでおいて、今更何言ってるの。名を刻む行為はいわば番いになるってことじゃない。あんたはシャアラと幸せに暮らせばいいじゃないの」  その言葉に心底カチンときたようにロンは叫んだ。 「ああそうだろうよ、だがなやっぱりおれはお前が好きなんだ、おれはお前じゃなきゃイヤだ、おれの魂はお前のものだ、他の女なんてただの気持ちいい穴だ! 踏み台だ、シャアラはお前に一番近いからヤった、あいつにお前の女友達以上の価値はねぇ。情なんざねぇんだよ!」 「なんですって?」  周子は怒りに黒髪が逆立つのを感じた。  シャアラは数少ない、いや、今となっては唯一の、周子の女友達なのである。  今となっては、というのも、年頃になるにつれ周子が異様に男の感心を惹くようになったからで……特殊な血系という絶大なメリットとその容姿、同じ年頃の男どもはすべからく周子に夢中になる、本人には無自覚でも、本人に全くその気が無くとも、つまりはそれは同性からはどうしようもなく恨みを買ってしまうことと同義だ。  シャアラだけが唯一、仕方ないわよあなた美人なんだし、と笑って流してくれたのだ。 「死 ん で 詫 び ろ!」  周子を中心にその足下から突風が、ぶわりと巻き起こる。  強力な魔法を行使する時に生じる魔法風である。  青白い燐光が宙に浮き、急速に輝きを増しゆく。  何処か次元の違うところから、金属軸の擦れるような、なにか膨大なエネルギーが一点に集約してゆく独特にして奇妙な音が響く―――、  高い周波数の不穏な衝撃音、宙を裂くように閃光が疾り―――、 「げっ、おおおおお前、ラッシュまさかそれ……」 「さあ、その子をこっちへお寄越し!」  広範囲に爆発の衝撃波と炎を撒き散らす殺戮の攻撃系最上級レベルの呪文、ロンの背後に今更ながらベースの豪奢な建屋が目に入ったが、  ―――畜生、このクソベースも一緒にぶっ飛ばしてやる!  血が沸き立ち肌がびりびり痺れ上がるような、強烈な威圧感。  急激に満ちゆく魔力の手応えが、肌の表層を、髪の一筋一筋を、爪先を疾る。強力な呪文を放つ直前の凝縮されたエネルギー、ちりちりと肌を焼く帯電にも似たこの種の感覚はむしろ心地よく―――。  だが。 「アア……」  唐突に地に膝を折って周子はうめいた。  大きくうなだれる。  身体に満ちていた魔力がふいにかき消えたのだ。まるで乾いた砂地にすっと水が沁み入るが如く、左指の黒い輝石が魔力を吸ってしまったのだ。 「こんなときに呪文が出ないだなんて」  よりによってこんなときに、と周子は地面を叩いた。 「ふははは、今日は絶不調みたいだな! おれは運がいい!」  ロンはまるで勝ち誇ったように高笑いした。  ちくしょう、と周子は恨みがましく左手薬指の石を見たが。  ―――ドランクドラゴンの盟約石  黒い魔石の底には無数の砂金のようなものが煌めき、魔力を吸った直後たる今や石自体が満天の星空の如く輝いている。それは、目も眩むような美しさだった。 「代々のタチバナの魔力を吸って、この石はどんだけ吸えば気が済むっていうのよ、くそう」  魔力を抜かれた身体に置き土産の如く押し付けられた強い疲労感、褒美だとでも言わんばかりのそれはひどい屈辱にすら感じられた。  ロンは周子の隙を見逃さぬほどには冷徹だった。  一際高く悲鳴を上げた少女の声に、周子はハッ、と顔を上げた。 「さあ。おれの名は明かした、次はお前の名を明かせ。おれはやるときゃやる、本気だ。でなけりゃおれと一緒に幼女殺しの汚名を着ろ」 「……分かった、わーったって。ギブ。その子を放しな」  よろよろと立ち上がると、少女を解放させた。  少女の傷をちらと吟味した周子の手から、ぱっと癒しの白光が瞬く。  ほんの簡単な治癒呪文なのに、それを行使するのにすらじっとりと嫌な汗をかいた。魔力はもうほとんど残っていない。先ほど唱えかけた最上級クラスの攻撃呪文なぞ、  ―――到底、出そうに無い、か、  やれやれと嘆息した周子にロンが歓喜の声を上げた。 「ほら、その能力! 攻撃呪文どころか癒しの呪文まで使えるたぁ、まじで珍しいんだぞ、まさに最強だ! さすがタチバナの血だ!」  やっぱりタチバナの血だ、すごいぞ、とロンの尻馬に乗って野次馬が口々にざわめく。  キッ! と振り返ると、うるさい! と周子は鋭く一喝した。  こわいぞ、つえぇ、タチバナの血だ、怒らせたら間違いなく殺されるぞ、ああだがラッシュサマーが怒るのは見ごたえがあるな、イイ女だな、やりてぇな、タチバナの血を引く子が欲しいものだな、といっそう野次馬達はざわめいた。 「いーい黒髪だ、おれはそれが欲しい」  嫌な汗を拭いざま掻き上げた黒髪に、ロンの視線がじっとりと熱っぽくまとわりつく。 「そのタチバナの血におれを入れろ! おれにやらせろ、いや、頼むから、おれをお前に縛ってくれ、おれにその名を刻め。おれはお前のために死にたい!」 「ちょっ」  ナイフを放り投げロンは両手を広げると、小柄な周子を抱きしめようと、 「ラッシュ、お前が好きだァァァァァ!」  そう叫んだ途端、へぶしっ! と周子の足の裏を顔面に喰らったが。  ロンは低い声で不敵に笑った。 「……じき、シャアラは死ぬぞ」 「なんですって?」 「あれには、おれにお前の名を刻ませるよう、命じてある」  命に背けば死ぬ。タトゥーの呪主の命令は絶対だ。周子はシャアラを見たが、彼女は力なく顔をそむけた。  肯定。  重く長い沈黙があった。 「お前にタトゥーを刻むなど、さすがにそこまでは要求しない。だが想いが伝わらなくてもおれはまじで惚れたお前に隷属したい。せめておれをお前のものにしろと言っている、これ以上は絶対に譲れない、死んでもだ、誰が死んでもだ、お前の唯一の女友達が死んでもだ」 「……」  半眼を伏せ、周子はとうとう諦めの息を吐いた。 「リィアード・リルケルム」  ロンの名を呟く。  そうして、誰にも聞き留められぬよう、そっと小声で己が名を呟いた。  ロンがにやっと笑った、その瞬間。  彼の体がぶんっ! と一度大きく、弾けるようにして宙に飛んだ。  激しく仰け反った身体、背骨の軋む音が鈍く響き―――、  そのまま目に見えぬ力で叩きつけられるかのように、強烈な勢いで地面に落下、激しく地に打ち付けられた。 「がはっ!」  その衝撃に一瞬体が硬直する。そして、この世のものとも思えぬものすごい悲鳴をあげた。  派手な血飛沫が上がった。  ロンの体ががくがくと激しく震える。 「ふ、ふはははははははは! ラッシュ、これでおれはお前のものだ!」  ロンの血を浴びながら、周子はその左腕を取った。  ひどい有様だ、二の腕が切り裂かれ、とめどなく溢れ滴り落ちる真っ赤な血の向こう、肉が弾けるように何かが刻まれている。  それはひどく残忍で、醜悪に、見えた。  タトゥーが刻まれる瞬間をこの目で見るのは初めてだった。 「……痛い?」 「痛いさ!」  だがおれはようやく魂の居所が定まったような気がする、とロンは言った。  人質をとって恐喝されて。強引に名を刻まされて。不本意にもロンの呪主となった周子は、それでもやはり特別な意味ではロンのことは好きにはなれなかったけれど。  魂の居所……。  その言葉には痛烈に妬けた。  ―――いつか自分も、その名を刻みたいと願う相手に出会えるんだろうか、  周子もそれを求めている、求心力を生む錘、この世に身を縛り、強くもしまた枷ともなり得る代え難い己が魂の等価品、この身の内の何処か深い処に巣食う欠落感が、絶望的な渇きの実感で以って何かを求めているのを知ってはいるのだ。あるいはそれはミアムの種の本能といってよいのかもしれない。 「なぁ、ラッシュ?」  その声は甘い。まるでベッドの中で心底惚れた女に囁く声だ。 「せっかくお前の名を刻んだんだ、タトゥーの呪主としてなにかおれに、命じてくれ」 「誰にも私の名を漏らすな」  端的に周子は命じた。  分かった、とロンが短く頷いた。  その体は震えが止まらない、傷を押さえた利き手の指の間から、血がぼたぼたと滴り落ちている。  それでもロンは周子を熱のこもった愛しげな眼差しで見つめてくる。 「後は……一生涯私の半径三メートル以内に近づくな」  キッパリと言い放った周子を、ロンはあっけに取られたように見つめた。 「んなあほな。まじで?」 「そして、二度と私の下命を乞うな、以上」  ロンは呼吸さえ忘れてみるみる青ざめた。 「……ロン、言っとくけどね、これは策でも切れ者でもない、ただの犯罪。あんたは立派な犯罪者。人質とっといてよくもまあやらかしてくれたわね、せいぜい反省しな!」 「半径三メートル以内って、好きなお前に近づけないだなんて。こりゃ死刑宣告だな! タトゥーに抗っておれは死ぬかな! やってくれたな、ラッシュ、あまりに過酷過ぎて、なんだか笑えるな!」 「笑えるわね」  ひときわ冷めた声で周子は呟き、肩を竦めた。  取り押さえられ引立てられる自分の新しい情夫、奴隷を見送って。まあ、要は血迷っただけの、ただの痴話喧嘩だ、大して長い間は牢屋にも入らんだろう、と思って。  ―――出てきたら、奴から逃げなきゃ、三メートル分。さすがに死なせるわけには行くまい。 「ああなんだか面倒になってきたな、ますます」  周子は天を仰いで大きくため息を吐いた。  騒ぎの結末を見届け、長老が去ってゆくのが視界の端に入った。この騒ぎの原因はあいつだ、追いかけて殴り倒してこようかと思ったそのとき、 「ラッシュ! よくも私のロンを盗ってくれたわね!」  殴られたのは周子の方だった。  強烈な平手打ちの痛みが熱く頬を焼いた。胸倉を掴まれがくがくと揺すられる。 「……盗ってないよ」 「ええ! ええ! 分かってるわ、あのバカは勝手にあなたのものになったんだわ! でもロンはあなたのもの、タトゥーは一度だけ、もう二度と私のものにはならない、あなたが悪くないのもそりゃ分かってる! 頭ではね!」  いっそ殺してくれて良かった! とシャアラが激しく泣き崩れて。 「一生その腕、そのまんまでいればいいんだわ!」 「えっ」 「その傷の無い腕で、一生誰をも認めず、誰を愛することもなく、誰とも関係を築くことなくただひとり虚しく世界を彷徨えばいいんだわ!」  その言葉はタトゥーよりも何よりも、強烈な呪そのものに聞こえた。  ―――どうしてこんなにも見るもの全てが色褪せて見えるのか。  確かにみなの言うとおり、手近な男に熱を上げることが出来たなら。  もっとずっと早い時期に誰かと恋にでも落ちることが出来たなら、さっさとタトゥーを刻んでしまっていれば、なにもこんな厄介な騒動を引き起こさなくて済むはずなのだ。  それはわかっている。  分かってはいるのだ、ただ、これという相手が未だ見つからないだけなのだ。  誰も選ばないとは言っていないのだ、せめて、好きな相手を決めるのに多少時間がかかったっていいだろうと思うのに、この国の人間は、周子にはそんな気配すらないと決め付け、勝手に押し付けてくる、それが我慢ならぬのだ、好きな相手ぐらい自分で決めて当然のはずだ。  どうしてそれが許されないのか、もはやこの国には居場所がない、そう思うと周子はどうにもいたたまれなくなった。 「タチバナだ、さすがタチバナだ、強情だな、男一人仕留めて情の欠片もかけぬとは、よりによって近づくなだってよ! つめてぇな!」  絶大な魔力を誇るタチバナの血への羨望の裏返し、畏敬と恐怖、野次馬どもが口々にささやくそれらの言葉は殊更容赦無く周子を傷つけた。  うんざりしつつ、取り囲む野次馬に寄れば、ざっ、と道が開ける。  虚しい距離だった。  だが、そんな野次馬どもの向こうには。  人ごみから離れたはるか先には、かろうじて、周子の救いが待っていて。  ―――父さん、  微かに聴く幽玄で気品高い沈香の匂い、人ごみから離れたはるか先から、風に乗ったそれを感じて周子は一瞬身体を震わせると、安堵の息を小さく吐いた。 ---------------------------------------------------------- [tog]3:父の名に知るもの [「タトゥー・オブ・ギャラン」/長編/連載中] ----------------------------------------------------------  ベースの敷地境の鉄門扉の向こう、日褪せたレンガの壁に寄りかかっているその姿、細身の黒いパンツと素肌に白シャツ一枚羽織っただけの素っ気無い姿だが、その気負いのない様がまた、修三らしい。  腰ほどまであるまっすぐで艶やかな漆黒の髪は、彫金の髪飾りでひとつに束ねられ、風が疾ると、その冴えた空気の抜けた一筋の余韻に一層香気が際立った。 「……父さん」 「おまえがタチバナであろうが無かろうが、なにも回りに流されて自分を見失うことは無い」  いつもどおりの怜悧な無表情だが、落ち着いた、心に深く沁みるような父修三の声である。それは至極冷静で、また温かった。  修三はそれ以上は何も言わなかった。  無言のまま、周子は修三と並んで歩いた。自宅へ戻ると、修三は軽く周子の肩を押して促しテーブルにつかせた。  トン、と冷えた水の入ったグラスが目の前に置かれ、周子はそれを両手でとった。  飲み干すと、胸がすっとした。  下手に言葉をかけられるより、その無言がありがたくて。決して冷たくない冷静さが、そっと包んでくれるようで、ようやく芯から安堵した。 「父さんだけだ、私が安心して傍にいられるのは」  ああ、ひどい目に遭った、とテーブルに突っ伏して周子が呟くと、 「いつまでも未隷属でいるつもりか」 と、修三はあきれたように笑った。未だに誰の名もその腕に刻んではいない父さんの方がはるかに頑固だろうと周子は思いつつ、父親のその顔を見る。 「タトゥーなんか要らない」 「気にするな、そのうち誰かに惚れるだろう」 「やー、無理。父さんよかいい男なんていない気がする」  修三はわずかに目を細めた。日頃笑わぬ男であるとは思っていたが、この男が実の娘である自分にしか笑顔を見せぬ男であると知ったのはつい最近だ。タチバナの血、このミアムでもたった二人しかいないその血、その身内。周りの人間との魔力の格差が、己の異質さが際立ちゆくにつれ、修三こそ真に理解し合える唯一の相手だと、周子はこのごろ特に強く思うようになってきた。  父娘である、だが周子は、この父とずっと一緒に生きていけないものかなと、思った。  娘の言葉に真摯な色をみて修三は静かにテーブルについた。椅子の背に身体を預け腕組みをすると、無言で静かに目を伏せ、周子の言葉を聞いた。  修三を包む、まるで何処か異界へスルーするかのようなその澄み切った静寂さは、修三が重大な判断を引き出すときの独特の雰囲気だと既に周子は知っている。こんな静けさの後に修三が下した決断はこれまでどんな場合においても覆ることのない、強いものだった。たとえそれが困難な暗殺の依頼であろうと、夕食の献立決めであろうと、下した決断の強さは同じだった。その後にどんなことがあっても動じぬ確固たる決断というものを、修三は下すことが出来た。  周子は父が何を言い出すのか、待った。  この国を爆破すると言い出したとしても、周子はこんな押し黙った後の修三の言葉には驚かないことにしている。この信頼は言葉では言い表せない。  長い沈黙を、周子は待った。  やがて修三は席を立った。無言だった。  気乗りしない表情で時計を見上げると、戸棚の引き出しの中から赤く透いた魔石をひとつ取り出した。空間を移動する効力をもつ魔石である。 「あれ? どこか行くの?」 「……召喚。あのバカがまた金をつぎこんだのだろう。しぶといものだな」  肩透かしを食った気分だった。  周子がその十倍もの値で扱われるとはいえ、修三を召喚する契約金もまたべらぼうに高い。  莫大な金をつぎ込んで、確かな経験値と安定した魔力を有するミアムの召喚の種実力ナンバーワン、その修三を召喚するのはここ数年、百戦錬磨の傭兵、クレリック・リザートただ一人と決まっていた。 「これだけの額をそうたびたびつぎ込むバカは他にいないがな」  だがこれで最後だ、すぐに戻る、そしてミアムを出よう、と修三は言った。  周子に寄るとそっと抱きしめる、周子の耳元で、甘く低い声で、ずっと私のそばにいるがよい、と修三は囁いた。それは周子が今まで聞いたことの無い、爪先まで痺れ上がるような甘い色を含んだ、修三の声だった。  抱き寄せてくれるその手が、それは到底、血の繋がった父が娘に触れるそれではないと周子は知ってしまった。 「タチバナの真の名はベースでさえ知り得ぬものだ」  周子は修三の真の名を知っている。ずいぶんと昔に修三が教えてくれたその意味を、ようやく知った。  目を丸くしてたっぷり数瞬、周子は唖然と修三を見つめた。そんな周子のやはり幼い反応に少し困ったような逡巡したような表情を浮かべはしたが、それはほんの一瞬で、修三は周子の戸惑いを押し切るようににっこりと満面の笑みを浮かべてみせた。笑顔ひとつで相手をねじ伏せる、己の蠱惑的な容色の魔力をも熟知しているきわめて冷静な態度だった。  背を向け、今にも魔石の効力を呼び覚まし召喚される地へ飛ぼうとする修三の気配、周子は我に返ると、ソファの上にぞんざいに放られたままの”封印の書”を拾い上げた。  出掛ける修三にそれを差し出すのはいつもと変わらぬ仕草だが、かすかに手は震えた。 「要らぬ」 「? いつも持っていくじゃない。父さんは面倒くさがりだからこいつで魔物を召喚して一気に終わりに……」 「あ奴ごときに手間取らぬ」 「えっ?」  あ奴って、クル? とクレリック・リザートの愛称を漏らして周子は身体を一瞬硬直させた。 「とととととうさん?」 「遊びは終わりだ」  すぐに戻る、修三はそう言って赤く透いた魔石を手のひらに載せ、二言三言、呪文を呟くと、すっとその姿を消した。 ---------------------------------------------------------- [tog]4:召喚された先 [「タトゥー・オブ・ギャラン」/長編/連載中] ---------------------------------------------------------- 「……」  召喚された修三は、驚いたような表情をほんの一瞬見せた。が、すぐにいつもの怜悧な無表情に戻ると見下げ果てたような冷めたかすれた声で呟いた。 「……こんな若造に出し抜かれるとは、クレリック・リザート、あ奴も落ちたな」  修三の目の前の若い男は、掛けていたサングラスを外し胸ポケットに挿すと、代わりにそこから煙草を取り出し、火をつけた。  優美な紫煙の香気がゆったりと立ち上る。  考え深げでいて、それでいて大胆に獲物を狙う狼のような、情欲の炎ゆらめく眼差しでじっくりとなぶるように見つめてくる。  修三と同じ黒目黒髪、白皙の肌、色めいた狡猾な美貌からぞっとするほど冷酷であでやかな微笑が放たれる。 「お前さんから譲り受けたいものがあってな? 挨拶に来たんだよ、お義父上殿」 「…………義父上?」 「そ。お義父上殿」  たちまち不快そうに修三の秀麗な眉が寄った。不意に空気ががらりと変わり、長い指が素早く印を結びゆく。  瞬時に激しい突風がその足下から吹き上がり、修三の長い黒髪がざばりと逆立つ。魔法風、その強烈な威圧感はベースで見せた周子のそれよりもはるかに容赦が無い。  みしみしと空間がきしみゆく不気味な音を聞きながら、だが男は全く動じることなくゆったりと深く煙草を一口吸った。ふふ、と笑いながら軽くその煙を吐いて。 「いい殺気だ―――」  妖しくかき乱れる優美な紫煙の向こうからぞっとするほど冷徹で妖艶な流し目で修三を射抜く。 「無駄、さ。……百代目は何処だね? 修三、修三タチバナ」  修三の滅多に表情を変えぬ冷たい双眸が、驚愕に見開かれた。 ---------------------------------------------------------- [tog]5:ガーナ [「タトゥー・オブ・ギャラン」/長編/連載中] ---------------------------------------------------------- 「のあーっ、畜生、今日も空振りかっ!」  およそ魔物とは言いがたい、貧弱なスライムをぺちゃりと靴底で踏みつけると、ギャラン・クラウンは叫んで仰け反った。  傾きかけた夕陽はいっそう赤みを濃く増しつつ急速に地平線の向こうへ沈んでいく。斜に背負った夕陽が、ハチミツのようにあでやかな金色の髪を赤く染め上げ、陽に透けた髪がまるで光を放っているかのように光り輝いている。  陰になって定かではないが、その表情は苛立ちを押さえきれぬかのように険しい。ごっそりと陰になった秀麗な面持ちから、青い瞳だけが射るように鋭く、見つめてくる。自分より三十は若い青年に睨まれ、壮年の司令官は、すっかり竦んで立ち尽くしていた。 「ですが、私が畏れ多くも西方の国境警備の要、血盟砦の司令官を任じられて五年、日夜精進して務め上げて参りますに、このような魔物を見たことは一度もございません。やはり、召喚したものと思われます」 「ンなもん召喚してどーすんだよ!」  無残に踏み潰された挙句、まだ午後の暑さの強く残る夕陽に射られ、小さなスライムはみるみるうちに水分が蒸発しいっそう小さく干からび縮んでゆく。 「しかし魔物でございます」 「魔物ならこんなもんでもなんでも怖いってぇのか」 「いえさすがにこれは」  壮年の司令官はむしろ気の毒そうな表情で、その残骸を見る。  ガッ、とその残骸が蹴り上げられ、土くれごと宙に舞う。  ギャランは苛立ちを紛らわすかのようにニ、三度ぐりぐりと首を回す。腰に下げた長剣を鞘ごと抜きおもむろに首の後へ回すと両手をかけ、斜めに体を捩り、伸びをする。きしむ剣鞘にいささかの敬意も払わぬ。 「こりゃどー見たって、練習、だろ、練習!」 「ですが」 「召喚、ってのはなー、こー、もっとー、あー、なんだー、でかいヤツ!そうでかいヤツで、ドラゴンとか火ィ吹いたり地面に大穴あけたりそんな物理的に強いか気味の悪くてなよなよしただがやけに魔力が強くて攻撃呪文ばっかくりだしてくるかの、なんかやたらとすげー、とにかく倒すのが厄介なそんな異形のものを呼び出したりなんだりするんだろ!アウトローっつうか、あー、なんだ、禁断の技?」 「えええっと……」  司令官はむやみに絡んだギャランの言葉の中から的確な言葉を切り出すのにいささか難儀しがらも、ぴしりと姿勢を正して答える。 「つまりは”召喚の書”はまだまともには行使されていないと」 「うざっ」  間。  気を取り直すように、司令官が靴踵を鳴らした。 「つまりは、まだこのような貧弱な出来そこないが現れる程度で済むうちに、かの書を取り戻すということでありまするな」 「焚く!」  なんと、と司令官が息を呑んだ。 「焚くとおっしゃいまするか」 「無論」 「……もったいない」  司令官の物言いにギャランは目を剥いた。 「おまえ、おかしいぞ! 魅入られたか! 魔物がごちゃごちゃ出てくるあのおかしな本をこの世に残しておく方がよっぽど物騒だぞ!」  おかしな本……王宮の宝物庫に大切に保管されていたかの本に対するあまりに率直で乱暴なその言葉に、壮年の司令官はわずかに冷や汗を浮かべた。 「……ですが、セリアが既に”召喚の書”を手に入れたとの噂もございます」 「かの天才宰相か」 「かのシュルツ宰相ならば、謀略に長け、まんまと”召喚の書”を手に入れることも、あながちあり得ぬことでもないと……皆申しております。前王陛下は後年セリアの宰相とは存外に親しくなさっていたと……そして、前王陛下は”召喚の書”を持ち出し、姿を消しております」 「ふっざけんな! 国王が敵国へ亡命するわきゃねーだろっ!」 「真意はどうであれ、実際にそのような噂のある以上、われわれは前王陛下を弾劾、暗殺しこそすれ、もはや王として敬い称えることなど到底出来かねます」 「はっきり、言え」  十分はっきり申し上げている筈だと思いつつ、壮年の司令官は辛抱強く続ける。 「前王陛下が”召喚の書”とともに行方不明になられ、はや一年。今我が国ガーナが切望しているのは、国王不在のこの緊急事態を回避しうる、若くて強く雄雄しい新国王でございます」  露骨に嫌そうな顔をするギャランを、戒めるように更に辛抱強く丁寧に言葉を続ける。 「元来ギャラン様は我ら軍部の最高司令官。軍部は新国王としてギャラン様を仰ぐことに異存はございません、むしろ、あなた様のこれまでの軍における指揮統率の的確さ、言葉の簡潔さに皆心酔しきっております、あなた様のような気性の激しい、雄々しい王を頂くことは、我らの究極の望み。感激でございます。特に私などはあなた様の幼少のみぎりよりお仕えし畏れ多くも剣術の……」 「なげーんだよ、ハナシ」  ギャランは壮年の司令官をどかっ、と無下に蹴り上げた。頑強だが、従順で無抵抗な司令官の体はいとも簡単に地に膝をつける。  干からびたスライムを蹴り上げた足である。この若き新国王にとっては、自分などそんな程度なのであろうかと、司令官は言葉に出来ぬ劣情に胸を焼いた。  どれほどに熱い言葉を捧げても、当人に聞く気がなければ届かない。自分たちが向ける好意と期待を、どのようにして伝えればよいのか、長年軍上層部において存分に実績を積んだ、いわば人心を読み御し、多くの兵を統率するのに長けた壮年の司令官にもそれはわからない。  それでも、司令官は言葉を続けた。 「若く、強く、気性も激しく、そして類稀なるそのお姿、見るものを魅了するその美貌、まさに王、生まれながらにして王たる者の素質を存分に祝福されておいででございます」 「ハリー、お前変わっちまったなァ、おい。んなわけのわかんねぇしゃっちこばった変な言葉遣いしやがって。ナニ言ってんのかさっぱりわっかんねぇぞ」 「変わったのはギャラン様でございます」  ぐ、とギャランは歯の奥で一度、不服そうな音を立てた。  ギャランはますます嫌そうに目を半開きにすると、秀麗な面持ちをゆがめる。 「これではほんとに王にされちまうだろ!」 「いえ、既に、王でございます」 「言うな!」  ギャランは、自分の剣を壮年の司令官に突き出した。握らせようとするが、今度はうってかわってその頑強な体はピクリとも動かない。 「ほら、殺せ、おれを。おれは王にはならんぞ! たかが前王陛下の正嫡であるというだけで、そうすんなり王にされちゃあかなわんと言ってるんだ!」  握らぬ剣を、地面に叩きつける。 「おれはなー、そりゃ剣は好きだぞ、血のッ気が多いからな! だが王なんてそんな面倒なこと、真っ平ごめんだ! おれはなー、酒飲んで女抱いて、そんな人生でもう十分だっつーんだ!」 「それはまことで?」  落ち着いた澄んだ声が、何処かからかうような色を込め、真意を確かめるように問うてくる。  間道の向こうから、一頭の白馬が夕闇を裂きゆったりと近づいて来た。もはや闇に近いほどに暮れた夕闇に、鮮やかな緋色のマントが一際目立つ。 「ずいぶん派手ななりだな、カズマ」 「正装でございますゆえ」  細身の長身に見事な緋色のマントを羽織り、カズマ・フォン・グランツは馬をひらりと下りると、裾を払い、襟元を軽く引いて正した。穏やかな、実に洗練された貴公子然とした仕草である。 「お迎えに上がりました」 「明日から正装はパンツ一丁でいい!」  メガネをかけた端正な顔立ちは、微塵も動じない。 「いまやあなた様の命に逆らうものはおりません。これほど高い支持を集める国王はかつて無い。たとえパンツ一丁という理不尽な命でも、皆粛々と従うでしょう。さすれば……」  地面にうずくまっている壮年の司令官にちらりと視線を落とす。 「王宮にむさくるしい男どものパンツ一丁が右往左往するのをお望みか」 「ウェルカムだ!」  間一髪いれずに返すギャランをカズマはしみじみと見つめて。 「しょうがないですね、では、却下」 「最初から従う気なんざねぇんだろ!」  とっぷり暮れた闇夜に目立つあでやかな金髪を振り乱し、ギャランが噛み付いた。  カズマは小さく息を吐くと軽く手を挙げ、壮年の司令官に二言三言指示すると、控えていた一個小隊を引き上げさせた。  いくら元来ギャランが親しく出入りしている軍部の精鋭部隊であろうと、これ以上”新国王”の奇矯なる様を目のあたりにさせるわけにはいかぬ。司令官もそのあたり気遣って少し離れたところに部隊を控えさせてはいたが、ギャランの威勢の良い声は良く通る、本気でバカなことを吐くその口の塞ぎ方は、幼少の頃より付き合いのあるカズマでさえもさっぱり分からない。 「三現神はいまだ不明ですが、既に必須の五貴族のうち、ルドルフ、ラインハルト、アシューの三人は決定し、長老にはポルデモルト卿をと打診しております。それなりに手は打ちましたので近日中には色よい返事が返ることでしょう」 「ふん、得意の買収か」 「……我がグランツ家の総力をかけて、ガーナの真の王たる証明、三現神五貴族をすべて揃えて見せましょう、ぜひご期待ください」 「だから買収だろ? 札束で頬ビンタして回ってるんだろ、大体んなへんてこなもん揃えたからっておれは王にはならんぞ」  ギャランは背を向けると、ふんぞり返って腕を組んだ。 「おれは絶対に継がんぞ」 「継ぐ継がぬではなく。前王陛下が行方不明になられた以上、あなた様は新国王陛下であらせられます」 「勝手に繰り上げんな! だからこう毎日毎日国中駆けずり回って探してんだろ」 「王が、王宮を離れ毎日各地を飛び回っていらっしゃるのはひとえに、前王陛下とともに失せた”召喚の書”を探すためだと」 「お前が適当に言いくるめたんだろ」  カズマは利き手の中指で軽くメガネのブリッジを押し上げた。  最後の一筋の夕陽がグラスに反射する。 「王宮に、お戻りください」 「おれがお前の言いなりになったことがあるか」  間。  カズマは少し考えるように、神妙そうに軽く唇を引く。 「では、せめて一度くらいは……」 「抜かせ」  ギャランはひらりと馬にまたがると、 「お前もなー、札束ばっか撫で回わしてないでたまにはオンナの尻でも撫でろってぇんだ!」  あられもない捨て台詞を浴びせ、威勢良く馬を駆った。  あの口は何とかならぬものか、逃げ去る王のしなやかで力強い馬体を一人見送って、カズマはまたひとつ吐息をついた。どっぷりと深みを増しゆく闇の重さを肌に感じ、気を取り直すように今一度几帳面に襟元を正すと、馬に跨り王宮へと戻る道を行く。  整備された間道のすぐ脇は、腰辺りまでうっそうと生い茂った蔓草の覆う道無き森奥である。すでに深い闇が立ち込めている。 ---------------------------------------------------------- [tog]6:バカみたいな青い目だな [「タトゥー・オブ・ギャラン」/長編/連載中] ----------------------------------------------------------  ぐらり。  体が大きく傾ぐ感覚……急に増した重力を感じるなり、ばたりと地面にうつ伏せに落ちた。  強い夏の陽射しと、頭を撫でる微かな風、地に付けた頬と体の下から土の湿気がじんわりと染みて来るのが分かった。  頬のすぐ横に、誰かの黒光りする革靴を見て、ああ、召喚されたのだ、と周子は思った。  ゆっくりと身を起こそうとし、地面に立て支えた腕が震えた。  ―――重い。地面が恋しい。  召喚されたときはいつもこうだ、ミアムの結界は身体を軽くする、国外に出るなり、どん、と急激に重力の負荷が身体に掛かるようで、まるで羽根でももがれた気分がする。  ―――恋しい。  ―――地面が、いや、……み、ず、水っ!!  意識の焦点が合うなり、強烈に喉の渇きを感じた。体の内から上がった悲鳴にも似た強い欲求、乾きすぎて喉がひりつくようだ、そう思って顔を上げた矢先、ちゃぷん、と音がして、すぐ目の前に小瓶を見た。  不意に鼻先に突きつけられた小瓶のその水音、すぐさま奪い取り、口づけた。その液体が何か、よりも先に、とにかくこの渇きを癒すことを本能が選んだ、のだが。  ぶ――っ!  勢い良く三口ばかり嚥下し、残りを周子は激しく噴出した。喉を焼くこの熱さ、 「酒!」  噴出した口許をこぶしでぬぐって、うめく。  取り落としたボトルからは琥珀色の液体が地面に注がれていて。とくとくとく、地に零れる小さな音がいやに大きく聞こえた。芳醇な酒の香りが、染み込んだ地面からゆっくりと立ち上ってくる。  ―――どうして、その匂いに気づかなかったんだろう。  地面にへたり込んだまま、呆然とそんなことを考えて。 「口が利けるほどには喉の渇きは癒えたようだな」  黒い革靴の主が、すっと、自分の隣に屈み込む気配、周子はその顔を真横に見た。  逆光のために昏く輝く男の影、それがやや小首を傾げ、周子の顔を覗き込んでくる。ハチミツのようなあでやかな金髪が華麗な陰影を刻み、キラキラと光に散り輝くその様子はひどく豪奢で神々しく、その目ははっとするほど綺麗なブルーだった。 「あなたが、私を呼んだのね?」 「呼んだ?」  疑問で返す男のいぶかしげな表情、間近で見たその瞳は酒気を帯びている。  周子は知れず微笑んだ。  ―――相手が酔っ払いなら、楽勝だ。 「いずれにせよ、私がここにいて、あなたを最初に見たということは、あなたが召喚主、ロレンスってことね」 「ロレンス?」  周子はよろ、と立ち上がり、首を回し、腕を回し、地に堕ちてなお体が無事なのを確認すると、こほん、と一つ咳払いをした。  足下に屈んだままの男を見下ろして。  威厳を感じさせる、普段よりもずっと低めの声で、言葉を発した。 「聞こう、お前の望みはなんだ?」  ―――こう、召喚主に問うのは三度目だ。三度目の召喚、先の二回同様上手くこなせばそれでよい、ただの召喚、それだけだ。  交わした召喚の契約によりお前の望みを叶える、と周子は続けた。  男は呆気に取られたような、ぽかんとした青い目でこちらを見上げている。  ―――バカみたいな、青い目だな、  自分を見上げて寄越す目は、すがすがしいほどに青い。何の悩みも憂いもなさそうな、途方も無く美しい青色、晴れた夏の空の如き見事なまでの青い瞳を見下ろして、周子は軽く眉を上げた。  青い瞳は他に見たことがある、だがこれほどまでに色鮮やかで澄んだ綺麗な目は見たことがない。ずいぶんと美形な召喚主だな、と周子はその瞳を遠慮なくまじまじと覗き込み、 「お前が私を召喚したのだ、望みを述べよ」  短くそう命じた。  まして相手は酔っ払いである。  ―――適当に転がせば、簡単な望みの一つや二つ、あっさり吐くだろう。  そう思った矢先、 「ねぇよ」  答えを待つ間もなく、男は即答した。 「バカ言え、無いことは無いはずだ」  今まで、召喚しておいて望みがないと言った人間なぞ聞いたことがない。そもそも召喚とは莫大な対価を要するものだ、冗談や悪戯で費やせる額では到底無い。  見下ろされるのが気に食わなかったのか、男は立ち上がると、ふん、と小さく鼻を鳴らし、腕組みをする。思った以上に背が高い。今度は周子を見下ろして。 「望みなど、ない。ないものは無い」  それはビックリするほどの、キッパリとした良い声だ。張りと艶のある意志の強そうな雄々しい声、周子が今まで聞いたことのないほどの男前な声だった。  精悍な、引き締まった頬と、口角のやや上がった形の良い唇。  それが動いてもう一度。 「おれには望みなど、ない」 「……あんたはなんか、人生に絶望でも?」  あまりにも鮮やかで端的、揺らぎのないその言葉に、思わず周子は興味を惹かれそんな問いを返した。  何をそんなに驚いたのか、男は、息を止め目を剥いた。  上背があり肩幅は広い、腕組をして軽くふんぞり返ったその体は実にバランス良く。周子はその美丈夫な男の腰のあたりを、パンパンと気安く叩いて笑った。 「だーいじょうぶ、大丈夫。あんたには望みがある、人生そんなに捨てたもんじゃない、だって、この私を呼んだんですもの!」  さらに驚いたように眉を上げた男に、周子は自信たっぷりに微笑んで。 「この私を呼んだ以上、それ相応の歓びを。アンタ生きてて良かったって思うわよ」  べらぼうに高額な召喚契約金を課している自分をあえて召喚したのだ、望みはない、などと強がりを言ってみたところで、実際は相当の覚悟をしているに違いないのである。 「なあに? ミアムで一番高値で取引されてるのがこんな小娘でびっくりしてるの?」 「あ、新手のサービスか? カズマの差し金にしちゃずいぶん気が利き過ぎてる……っつーかありえ無ぇ、あいつはそんなエロ刺客を差し向ける奴じゃ無ぇ、だって、そもそも、宙から落ちてきたし? なんで降って来る? 宙から? なんかすげえな?」  どういう趣向だ? と唸ったその口調、困惑しふるふると金髪を振るその仕種は、見た目よりもずっと子供臭い。 「そぉーんな知らんカオしちゃってマァ。召喚された以上、なんでもご希望に添うわよ……さ、言ってご覧」  周子はそう言いながら、召喚を知らぬはず無いでしょう? ほら、と己の実体を確認させるべく、男の手を掴んで自分の胸に押し当てた。 「ちょ、ちょっと?」  胸に押し当てた男の大きな手が、一度離れたかと思うとそそくさと裾から中へと入り込んできて。  ぷにぷにと乳房を揉んだ。 「やっぱエロ刺客?」  お望みのままにとは強烈だな、青い瞳が涼しげに微笑んだ。 「ふにゃっ! 何がエロ刺客だっ、ばかっ!」  真っ赤になってその手を払うと、周子はびゅっと足を一閃、鋭く蹴り上げ……おや、と思った。上背のあるその身体が、ほんの少しだけ無駄なく動き、蹴りを躱した、自分の間合いもスピードも良かった、蹴りとしては良い蹴りだった、それをこう容易く躱すとは一体どういうことだ、と思ったのだが。  ―――なんだこの男……いやそんなことより! 「さあ、ロレンス、ふざけてないで早く望みを言って!」  くそう、胸を揉まれた、と口惜しげに吐き捨て、周子は人差し指をびしっと目の前の男に突きつけた。 「長居する気は無い、召喚主のあんたの望みさえ履行すれば、私はベースに還ることができる、さぁ、望みを言え!」  男は首を捻り、己に突きつけられた指先を不快そうにかわした。斜に構えて周子を見下ろすその眼差しは、偉そうでひどく不遜だった。 「ベースって?」 「そりゃ、ミアムの……って、ところでここはどこ?」  周子は言いかけた口を押さえて、男を見た。  男は軽く目を見開いて、周子を見つめていた。 「ガーナだ」  望みだ何だというよりも前にもっと互いに話をする必要がありそうだな、こい、と、強引に腕をつかまれ、引きずられるようにして連れて行かれるのを、周子はやっとの思いで振り払った。 「……女とは思えん力だな」  手の甲にできた掻き傷を見て、あきれたように男が呟いた。  振り返った地面には、引きずられた周子の踵の跡が延々と続いている。  何処かの庭なのか、手入れの行き届いた景色が広がっている。丁寧に刈り込まれた植栽とその向こうに広がる一面の柔らかそうな芝。  眩しい夏の陽射しを斜に背負い色濃く影を落とす木々、涼しげな木陰と鳥のさえずり、さわやかな風に凪いでキラキラと輝く湖面。どこを見ても美しい庭だった。  ただ、庭というには広すぎるかもしれない。  池というよりは湖。植えこみというよりは、木立。  庭というよりは、森の中。  散策にはまさにぴったりの景色が広がっているが。  ―――これだけ広い庭園を維持するのに、いったいどれほどの労力と金がかかるだろうか。  力づくの連行を必死で抗った周子は肩で大きくぜえはあと息をしながら男を睨みつけた。確かに、体に感じる圧倒的な重力の差が、この地が自国ミアムでないことを語っている。 「……ミアム、かの地にまだ生命があるとは知らなかったが」 「は?」 「かの地への立入りは禁忌の筈だが」  ガーナはもちろん、セリアとて認めていない、セリアが協定を破ったか、とその男は機嫌を損ねたように唸った。 「…………………」  たっぷり、間があった。 「おい、女……いや、待てよ」  ふと何かを思い出したかのように、男はちょっと眉を上げると、言葉を切り、まじまじと周子の黒目を覗き込んでくる。 「黒目黒髪といえば、お前はそうだ、タチバナ。そう、タチバナ、だ。シュウ……、んー……シュウ? シュウ……シュウコとか言ったか?」 「!!」  唐突に、心臓が破裂したかと思った。  強い衝撃と共にどくどくと荒く鳴り出した心臓のあたりを胸の上から強く押さえ。  腕が、肩が、身体が震えるのが分かる。周子は信じられない思いで目の前の男を見上げた。 「ロレンス、あんたは、どうして……」  ―――どうして私の名を。  名を、当てられた。もしくは、何らかの事情で知られていた、そう思うなり、恐怖と焦りで呼吸がますます苦しくなった。  こんな見ず知らずの男に、隷属のタトゥーを刻まれたら……。  恐れおののいた表情の周子を前に、対する男は微笑んで、お、ビンゴか? と急に機嫌を直したようだった。上から下まで、しみじみ周子を眺めて、いい女だなぁ、と明るい声を上げた。 「まさか本物を見ることがあるとは思わなかったなァ。その黒目黒髪、紛れも無い。はて、もう少し、妖艶な印象のする美女だったと思ったがなぁ」 などと、名を当てた当人はあごを撫で撫で、沈痛な面持ちの周子をよそに感心することしきりである。  周子は不安を隠しきれぬ声で男を見上げ、呟いた。 「ロレンス、私を知ってるの?」  たちまち男は眉を顰めた。 「先ほどからなぜおれをロレンスと?」 「だって、呼んだのはあんたでしょう、ロレンス」 「ロレンス、ね……お前は本当におれのことを知らんのか?」  こんな金髪で青い目の、これほどいい男は他にいない筈だが、と真顔で尋ねてくる。 「知るか!」 「命知らずだな」  面白そうに目を丸くした。 「ねぇロレンス、これはいったいどういうこと?」  ミアムにあるベースが、周子の真の名を漏らすはずが無い。  召喚の種の真の名はベースが管理しているが、あの狡猾な長老ですら、それを洩らしてロンを動かすことはしなかった。修三の言うとおり、ベースでさえ、長老でさえ、タチバナたる周子の真の名は知らない筈なのだ、漏らせるわけが無い。  ふうむ、と男は軽く唸った。 「どういうことかだって? おれの方が聞きたいぞ、いま、この世で最も有名な新国王様の御尊名すら知らぬ者がいようとはな! しかも、ロレンスなぞと三流の名を勝手に命名しやがって! おれを知らぬからそんなぞんざいな口が利けるのだな! 無礼者めが!」  男は、威張りくさったように腰に手を当てふんぞり返り、大きく息を吸った。 「いいか、周子タチバナ、覚えとけ、おれの名は……」  周子は途端に飛び上がった。 「わわわわわっ! ちょっ、ちょっと待っ……」  周子の制止を聞かず、その男は堂々と、名乗った。 「おれの名は、ギャラン・クラウンだ」 「しまった!!」  周子は短く叫んだ。  ―――呪が!  刹那、肉の裂ける嫌な音を立てて、血飛沫が上がった。  噴出し宙に拡散した細かい血飛沫、霧の如きその向こうに、突然の出来事に驚きのあまり硬直したギャランを見た。大きく目を見開いたまま、呼吸すら忘れた様子で周子の腕から溢れ出る大量の鮮血を見つめている、その、なんと、間抜けな様か! 「何のために通り名があるんだ、ロレンス!!!」  怒りに任せ激しく一喝することで、意識を保った。  気力を振り絞り、首を捻って己が左腕を見た。激痛の涙に滲むその先に、獣牙に裂かれたが如き荒々しく生々しい肉の裂け目を見た。溢れ出る鮮血に、すぐには判読できないが。  周子は、認めた。  ギャラン・クラウン、その名が刻まれた、と。  痛みよりも何よりも、名を刻まれたその事実に、心が折れた。 「あ、あ、」  衝撃のあまり、言葉が出なかった。  混乱し、だがそれでも伸ばして寄越したギャランのその手、周子はそれを払うのが精一杯だった。  ギャランがたちまち不服そうに唸った。 「だからおれはロレンスなぞではないぞ? そもそも召喚ってなんだ? おまえ、どっかおかしいな?」 「おっかしいのはあんたじゃ!」  そう叫んで、周子の胸に嫌な予感が過ぎった。 「あんた、まさか、ほんとに、私のこと、呼んでない?」 「呼んでないな」  にべも無い。  ギャランは簡潔に言葉を継いだ。 「大体、金なんて払ってないし? そもそも、望みのないおれが、なんで召喚とやらということをしてお前のような女を呼び出し、望みを叶えてもらわないとならんのだ?」 「じゃ、これって」  ―――召喚に、失敗した? 召喚ミス? 「ロレンスの野郎!」  一声、荒々しくそう叫ぶと、地団駄を踏み、周子は本来対面すべき相手である召喚主の名に思いっきり毒づいた。  黒髪を逆立て怒り狂う様、その、およそ人間とは思えぬ凶暴な姿を見て、ギャランはどうやら自分が何か致命的な失敗を犯した、そんな、奇妙な高揚を実感した。  理屈はまるで知れぬ、だが、彼女をこうせしめたのは明らかに自分だとギャランは思った。湧き上がる正体不明な高揚と何か強い衝動があった、ギャランは素早く周子の後ろに回り込み、暴れるその腕を取った、野生の獣を保護するかのように、その小柄な身体を後ろから両腕で強くしっかりと抱きしめた。  ハッ、と身を竦めた周子が、ゆっくりと首を回し振り返る。  殺気立ち、怒りと絶望とを湛えたその黒目の、なんと艶やかで美しいことか。 「タトゥーが……」  タトゥー? とギャランは、周子の腕に刻まれた己の名を見て眉を顰め…… 「おれの所為なのか?」 「―――嫌ッ、触らないで!」  鋭い拒絶の悲鳴と共に強烈な平手を一発、ギャランはまともに喰らった。炸裂したその痛烈な激しさに目を丸くし頬をさすったのもほんの一瞬、ギャランは着ていたシャツを脱ぐとそれで周子の腕の傷を上からきつく押さえた。  みるみるうちに血に染まるシャツを二人は見た。  ギャランはすぐに無言でシャツのまだ白い部分を引き裂くと、周子の腕の付け根を固く縛った。手馴れた仕種だった。  止血のためとはいえ、腕を存外にきつく縛られて周子はぎゃっ、と短い悲鳴を上げた。  その拍子に舌を噛んだのをすぐに察したギャランが己の指を口中に強引に差し込んできた。顎を開かされ指で舌を押さえられ身体を強く抱きしめられる、気性の荒い獣をあやすような彼のその仕種が、それがとにかく無性に気に喰わなくて周子は喉奥で叫んで強く噛んだ、血の味がした、もはやどちらの血の味か、咽返るような血臭ばかりを感じて周子は目を回しかけた。 「大丈夫か?」  心配そうに問い掛けてきたその声は、心に深く沁みるような、周子がこれまで聞いたことのないほど思いやりに満ちた優しい声で。  心痛を露わにした半ば伏せた青い目に、長い睫が色濃く陰を落としていて。  ものすごく、綺麗な横顔だ、と周子は思った。  胸がぎゅっと強く鳴った。何か、重力を伴う大きな穴が空いた感覚だった。  恋に落ちる瞬間、というものを周子ははっきりと身体に知った。  どうしてこの男が自分の名を口にしたのか、到底分からぬが。  ―――だが。  タトゥー……  それはまるで恋情に近く。  ―――恋情に近く……  早くも呪に囚われた体の反応を確認し、周子は崩れ落ち号泣した。 ---------------------------------------------------------- [tog]7:隷属のタトゥー [「タトゥー・オブ・ギャラン」/長編/連載中] ----------------------------------------------------------  ―――雀を仕留めた猫のように。  何も真っ先にこのメガネ男の許へ連れてこなくともいいのに。  まだ飛びまわれる雀を、ぽてっ、と飼い主の目の前に落とす。  まるで見せびらかすかのように。  気を許せば飛び立つのに。あえて、放して。  そして、  身動きしようものなら、優しくその上に、手を、置く。  爪はなくとも、容赦の無い、尊大さで。 「カズマ、おれの人生まんざら捨てたもんじゃあァないそうだ!」  ギャランは周子の手をぐいぐいと強く引いて書斎と思しき部屋に入るなり、そこにいた緑髪のメガネの男に向かって得意げに笑った。見せびらかすような意気揚々とした態度で、自慢げに周子を突き出した。 「すっげ美人だろ!」  針の先っちょで突付いたようなお前の極小ストライクゾーンもこれならど真ん中だ! と叫んだギャランは実に上機嫌だ。  軽く腰に手をあてふんぞり返った長身は堂々としていて、額にこぼれかかる輝く見事な金髪はあでやか、そのクリアな青い瞳は存分に得意げである。  ギャランを見上げ、周子は自分の視線が、その青い瞳には全く届かぬことに絶望する。  ―――この男は、目の前のメガネ男の関心を引くのに夢中だ、  左腕の痛みが少しはどうにか紛れないものかと、周子はこぶしを握ってみた。少し腕を動かすと、腕に巻かれた、すでに存分に血を吸ったシャツが微かに血を吐いた。二の腕から手首の方へと、白肌を血が伝って滴り落ちる。  左腕から痺れるような熱い痛みが走って背筋を貫く。  肉を裂かれた傷そのものよりも、胸のほうが痛くて。  周子は、ギャランの立派な肩を見上げた。  ―――この男はタトゥーの呪を知らない。  純然たる恐怖だった。 「若、只今所用より戻りました」  落ち着いた男の声、続いてガチャリと音がして後方でドアが開いた。その音に弾かれるように周子は身を翻すと、メガネの男の横を走り抜け、その隙に掴んだデスクの上の花瓶を投げつけ窓を割った。鋭い破砕音と飛び散るガラス片、その窓枠に足を掛け大きく身を乗り出した。  一拍遅れて、慌てたギャランの気配が、 「ちょっ、待てや、ハゲっ!」  ―――ハゲ?  予想外の怒声に周子はふと眉を寄せ、窓枠に足を掛け飛び降りるべく強く撓めていた背を伸ばした。  その瞬間、頬のすぐ横を鋭利な冷気が掠めた。窓の外に向かってキラリと消失した、直線に近いその投射軌跡は短剣の白刃だった。ギャランの妙な怒声に気を引かれた一瞬の躊躇がなければ、首に刺さっていてもおかしくないその角度と勢い、唐突に己へと向けられた明確な殺意を知って、周子は背筋に冷たいものが落ちるのと同時にカッと頭に血が上るのを感じた。  咄嗟に振り返り様、なにか頑強なものが突進してくるのを見た、と思うなり、体当たりされた強い衝撃、窓枠に掛けた手と足の両方が外れたのを悟った。  ―――う、わっ、落ちる、  視界が転回する。 「エンヴィ!」  制止の色濃い声が窓際で一声、叫んだ。体当たりで窓の外に突き落とされ、受身の取れぬまま二階の高さから落下する独特の感覚、息を詰めたその瞬間に、窓際に駆け寄ったメガネのグラスが陽を弾いたのを見……緩慢にして異様な、落下独特の感覚はここで不意に断たれた。  ―――ちっくしょ、体が重い。  いきなり背骨に喰らった強い衝撃、一瞬、視界が白くなったその衝撃から意識を奪い返し、周子は毒づいた。  本当に、まるで羽根でももがれたかのように身体が重い。体力も素早さも、著しく低下している、なのに、体がいつものとおりに動こうとして反応する、思うように制御のきかぬ身体を持て余し、地に落ちた雀のようにじたばた足掻いている気分だった。  窓から落ちたのは自分ばかりではなかった、立ち上がりかけた所を足元を払われ、再び地に身体を打ち付け……、顔を上げたその瞬間に見たのは、背も幅も周子の倍はありそうな頑強な体格の男だった。この男が体当たりしたまま窓の外へと一緒に落ちたのだ。 「っ!」  髪を掴まれ頭を地に擦りつけられるなり、頚椎の折れるのを厭わぬほどの強引さで両肩を捻られ強く組み敷かれた、そして、殺意ある眼差しを見た。 「貴様、なぜこんなところに、」  ―――落ちた  男が呑んだその言葉、声にならぬその問いを確かに耳にした、と思った。  頭を押さえつけている男の指が周子の黒髪をひと房掴み、何かを確かめるかのように指の腹で擦った。しゃり、とその指先で己の髪が軋む音を周子は聞いて。  ―――落ちた……?  何か不明にして唐突な違和感に打たれ目を丸くした周子、だが組み敷いた男は問いの答えを待つ気配なく、そして周子に逃げ出す隙を一切与えず、罪人を引き立てるが如く周子の両肩を羽交い絞めにすると、後ろから強く拘束し引きずらんばかりの強さで強引に立たせた。 「―――ッ!」  腕を強く引き絞られ、たちまち激痛に高く悲鳴を上げた周子、ぬるっとした血の感触を指に知ったか、男はおもむろに周子の左腕に巻いた布きれに手を掛けた。  傷を見るなり、はっと息を飲む気配があった。  その時、後方でガッツ、と地を抉るような重い音が響いた。 「待てっつてんだろ、ハゲ!」  苛立ちの露わなその声はギャランの声だ。  玄関から外へと回る時間は無かったはずだ、ともすれば、窓から飛び降りてきたか、この男、いい体つきをしているのに案外身軽なのだな、と周子は拘束されたまま冷静にギャランの所作を量った。 「これをどうする気だ?」  ギャランの問いに、背後から羽交い絞めにしている男の殺気が不意に失せた、否、隠れた。  はは、と吐息混じりに頷くその気配。太く低いその声はどうやら年配の男のそれだと周子は思った。 「……かように怪しき者を邸内に入れるわけには参りませぬゆえ」  その言葉に、ギャランはカズマ、と一言、ちょうどそのとき建物の横手から、周子の落ちた窓下へと回ってきた男を短く呼ばって顎をしゃくった。  カズマと呼ばれた緑髪のメガネのこの男、窓から飛び降りてきたギャランとは違い、建屋から玄関を回って出てきたらしい。仕立ての上等な白いドレスシャツを身に付けた、品格ある身分の高そうな身なりと雰囲気、また同時に、線の細い、神経質そうな印象に見えた。  そのメガネの男が毅然とした声を掛けた。 「手を離せ、エンヴィ」 「しかし、若」 「このようなひどい手負いで何ができるものか」  その言葉に、力なく顔を伏せ地に目線を落としていた周子はにやりと笑った。  再度、主人と思しきメガネに命ぜられ、周子を拘束した太い腕が緩んだ。  ―――バカが  一瞬よろめくようにして解放された周子の、小柄で華奢な、血に塗れた身体、しなやかに傾ぐその身体、可憐なその姿……それが、その長い黒髪が、刹那、足下から強く巻き上がった不穏と凶悪を孕む風に逆立った。逆巻く魔法風の中、にぃっと口角を上げて詠唱を……唱えかけたところへ、邪険にそして力強く伸びた男の腕が、素早く印を組みゆく周子の指先を唐突かつ躊躇なく掴んで強引に引き寄せた。  絶妙なタイミングだった。  ギャランに抱きしめられて。  囁かれた。 「止せ。お前の立場はどう贔屓目に見ても、悪い」  虚を衝かれた周子は思わず顔を上げた。  ギャランの意志の強そうな唇が、カズマは強い、とだけ一言、そして顎先で軽くメガネの男を指した。  ア然とした周子を強くその胸に掻き擁くと、ギャランはもう一足歩、エンヴィと呼ばれた男から距離を置いた。  近寄るな、と言外に拒絶する明確なその距離、そして、 「二度とこれに触るな」  去ね、と一言、ギャランはぞっとするほど凄みのある雅語で男を下がらせた。  不承の沈黙すら許さぬ、場の凍るような強烈な拒絶、一切の抗いを許さぬ厳しい声だった。  悪いようにはしない、とギャランの囁きが不意に耳に触れた。だが次の瞬間、強く己の両肩を掴んできた手が、いまだ周子の知らぬ大きさで、周子は咄嗟に身を竦めた。不意に掴んでくる、不躾なその肉食獣のような仕草が、とにかく本能的に怖かった。 「ははは放して」 「暴れるな」  ずきん、と左腕が痛む。  ―――こんな短い、簡潔な命令にすらこうも実直に反応するのか。  明らかに、タトゥーの呪が発動している。  その厳然たる事実を知って、周子は絶望に肩を震わせた。 ---------------------------------------------------------- [tog]8:洗礼 [「タトゥー・オブ・ギャラン」/長編/連載中] ----------------------------------------------------------  不思議な男だった。  万人の心を蕩かすようなその美貌、あでやかな金髪と青い瞳の上等なつくりはただの見せかけで、ぞっとする程の厳しさと凍るような憂い、威厳とも言うべき不可侵な神々しさ、この男の存在はそれで出来ている。邸内の他の多くの従者を前にしても、ギャランは微塵たりとも表情を変えなかった。全く以って近寄り難い印象だった。だがそれが、どういうわけか、ふとした拍子に驚くほど幼くあどけない、屈託ないものに変わる、そのとても不思議な瞬間を周子は見た。その表情が、カズマにしか見せぬものであろうことも、同時に周子は知った。  エンヴィと呼ばれた男を冷徹に退けたギャランに強引に抱きかかえられ、周子は先ほどの書斎とはまた違う部屋に連れ込まれた。  がっ、と椅子を引いたギャランに肩を押され、周子はよろけた拍子に腰を付けた。  勝手知ったる様子で部屋の奥へと歩いてゆくその雰囲気で、どうやらここはこの男の部屋らしいと分かった、脱ぎ捨てたままの服、転がった酒のボトル、皿の上に残ったつまみ、破られた何かの包み紙、散らかってはいたが、何か、すごく……清潔だった。シャツを一枚手にして戻ってきて、ぞんざいにがばりと頭を通すその様子、乱れる金髪と形好い耳から続く太い首と喉、肩と胸、腰に掛けての均整の取れたライン、何か、とても……健康的な好い匂いがした。  トン、  グラスの底が好い音を立て目の前のテーブルに置かれた。ギャランが手づから傾ける銀の水差しの瀟洒な注ぎ口から注がれる素晴らしく透明な一条の水が、グラスの中に注ぎ込まれるのを周子は注視した。  喉が渇いていた。  水を受けるなりグラスがたちまち結露する、冷えた水のその強烈な存在感、纏った水滴の煌めく美しさは手を伸ばすのが惜しいほどで、周子はしばしの間見惚れた。  とてつもなく美味そうな水に見えた。  暑い夏の日に、これほど冷えた透明な好い水が居室に供されているのは、一体どれほどの身分の男だというのだろう、ふと見せる凍るような威厳、それは、まさに……  ―――私の主人として相応しい  いい表情をして見詰めてくる、とギャランが青い目を半目を伏せ、照れたように小さく笑った。そして、目の前の椅子を引いて座った。見詰めていたのを知られた、自分自身ですら今の今この瞬間まで気付かなかったその事実を突きつけられ、周子はかあっと頬に血が上るのを感じた。  見惚れていた、そう思うなり耳鳴りにも似た激しさで羞恥が押し寄せた。目の前のグラスを掴むなり、その水をギャランの顔面目掛けぱしゃりと掛けた。  思ってもみなかった周子の所業に虚を衝かれたギャランは真正面から見事に水を引っかぶり。  青い目がぱちくりと見開かれる、濡れた金の前髪から滴り落ちる無数の豪奢な水の滴、長く濃い金色の睫毛の上に乗って輝く可憐な水粒を見て、周子は泣きたくなった、なんと勿体無いことをしたのかと。飲みたかったのだ。それをどうして…… 「泣くな、水が飲みたいんだろ」  もう一度グラスに水を注いだギャランは十分辛抱強かった、それをもう一度、ギャランの顔に勢い良く引っ掛けた。  攣れる様な気配が一瞬走って、白いドレスシャツが目の前に割って入り、平手を振りかぶるのが見えた、叩かれる、そう思って身を竦め……そのカズマの手を、ギャランが素早く遮った。 「止せ」  その声のなんと好い声か。  甘い何かが胸の奥から滲む心地がした。  ギャランの手が不意に伸びて、断りもなく頬に触れてくる。その指先の不躾さに周子は顔を強張らせたが、己の頬の上でギャランの指が濡れるのが、涙を拭うその指の腹がひんやりしていて心地良かった。ああ、熱があるんだ、傷の所為だ、と周子は思った。  ―――いっそこのまま隷属して……  周子はうっ、と息を詰めた。  タトゥーの呪の凄まじい拘束力を、初めて、骨身に知った。  既に呑まれかけている己をはっきりと知ったのだ、無性に怖かった。これほどに強烈なものだとはつゆ思わなかった。  もう一度、目の前のグラスに水が注がれるのを見た。 「飲め。喉が渇いてんだろ」  ―――飲め……  ギャランの命令口調に、左腕にたちまち焼けるような痛みが走った。  周子は無言でグラスに唇をつけた。  そして、目を丸くする。  その水のなんと口当たりの柔らかな、まろい好い味か。そして同時に、恐怖と怯えに心が硬直してゆく。怖かった、この男の迂闊な命令が怖い、この男はタトゥーの呪を知らないのだ、効力を知らずに口にする命令のなんと危ういことか。そうだこれは自分の意志で選んだ相手ではない、望んで刻んだタトゥーの主ではないのだ、事故だ、反古にして当然然るべき呪だ。心を強く持って、呪に飲まれぬように、必ず、解いて……自由にならないと。 「顔色が悪いぞ」  気遣うギャランの声、さぞ真っ青な顔をしていることだろう、と周子は自分でもそう思った。  大きな手が伸びて、腕を取られた。  周子の腕の傷に、ギャランはあちゃー、と小さく呟いて。 「悪かったな……ずっとこのままでさぞ痛かったろう」  カズマは傷を覗き込んですぐに眉を顰めた。目線だけちら、とギャランを見遣る、それは利害関係を即断するのに慣れた、鋭い眼差しだった。 「なぜあなたの名が彫られているのです?」 「おれの恋人だから」 「! ダレが!」  たちまち目を三角にして怒って周子は叫んだ。上半身を屈め間近で覗き込んでいたために耳元で叫ばれた形になったカズマは、露骨に不愉快そうな表情になって上体を起こすと腕組みをした。 「断固拒否します」  ギャランがくにゃりと眉を寄せた。カズマを見上げ、 「カズマ、おれはまだ何も言ってない」 「仰りたいことは分かります」  じゃあ話は簡単だ、とギャランはにこっと笑った。 「しばらくこの女をここに置く」 「却下」  取り付く島もないほどキッパリと、カズマは首を横に振って毅然と再度拒否を示した。 「何処で拾ったのか知りませんがこんな得体の知れぬ野良猫、物騒です」 「ここの庭に落ちて来た」  落ちて来た? とカズマはたちまち訝しげな表情をした。が、ギャランのその美丈夫な外見よりもずっと幼いその内面、彼の言葉の拙さには慣れているのか、メガネのブリッジを一度押し上げただけで、ふむ、と冷静にひとつ頷いた。 「女が庭に落ちているものですか。イーズリー卿ラインハルトの差し金か?まあいずれにせよ、ここがそう簡単に侵入できる屋敷ではないのは王とてご存知のはず。いや、では王があえてそう仰るのならば、それでも結構です、それならばむしろ、この屋敷の主たる私にこそ利益又は不利益の与奪、もしくは、もっとはっきり申し上げて生奪与殺の権利があ……」 「何様のつもり、メガネ。どこの国の何の法律よ、いきなり私を殺すつもり?」  カズマの言葉を遮り、周子は軽薄に笑った。  グラスの水を飲み干してようやく、否、向けられた敵意にこそ、周子はようやく己の感情の揺れが収まるのを感じたのだ。人心地がついたと言ってもいい、敵意は簡単だ、あしらうか受けるか、いずれにせよそんなもの、慣れている。  ―――そう、タトゥーのもたらす恋情よりも、はるかに、扱いやすい 「随分と粗野で無礼な女ですね」 「大否定ね」  周子の失笑、それがまたカズマの神経に障ったらしかった。  たちまち険しい表情になったカズマのピリピリとした気配に、 「まあそう心配しないでもすぐに出て行くから」  さばさばと肩を竦めてそう言って。 「……この男がロレンスじゃない以上、この召喚は無効だもの」  ギャランが唐突に不服そうな表情をした。 「せめてこの傷が癒えるまでここにいればよいと思うが」  水を浸した真新しいガーゼで傷口を拭われ、周子はひゃっと短い悲鳴を上げた。  抗議の意を込めたその手つき、子供っぽくも残酷なやり様のギャランをキッ、と睨みつけて。  ―――召喚の仕組みとルールを、その重さを知らぬ者、無知たることのなんと無礼なことか。  そう思うと腸が煮えくり立つ心地がした。 「その提案は受け入れない、私への口出しは一切許さない。召喚主たるロレンスで無い者にその権利は一切ない、身の程を知れ」  身の程、と呟いて、ギャランとカズマは顔を見合わせた。 「身のほどって、お前、おれはさっき名乗ったろう、ガーナの王……」 「知るか」  召喚主たるロレンス以外はみんな死ね、とでも言い出しそうなほどの、聞く耳すら持たぬ断固拒否たる態度で周子はギャランの言葉を遮った。だがカズマの気を引いたのは、周子のそんな傲慢で不遜な態度ではなかったようだ。 「王、この女に、ガーナの王と名乗ったのですか?」 「……このおれを知らぬと言うからな。あまつさえロレンスなどと三流な名で呼びやがった」 「ガーナの王、と?」  真意を推し量るかのようにぐぐっとギャランの顔を間近に覗き込むカズマ、周子はこのとき初めて、カズマのメガネの奥の瞳が珍しい紫色であるのに気付いた。  ギャランはうぐっ、とまるでカズマにやり込められたかの如く言葉に詰まり、それから、名乗って無ェ、と唐突に食中りでも起こしたかのような珍妙な声を喉から搾り出した。 「おれはこの国の王ではないし、今後も一切なる気は無ェ」  たくお前はいちいち細かく人の揚げ足を取りやがって、とギャランはカズマから顔を背け……そんなギャランの様子に、カズマは、ほう、と感心したような声を出した。そして何か周子に利でも見出だしたのか、直接周子を見据え、声を掛けた。 「召喚主たるロレンス、とは一体何のことです?」 「……」 「契約で雇われたというのなら、やはり誰かの差し金か? どういう意図で。わざわざ見目良い女を選んで送り込んでくるとは、閨で寝首をかくつもりか」 「閨!? このバカと!?」  周子はガタッ、と立ち上がるとギャランに指を突きつけ、眉を吊り上げた。 「私が寝る男はタトゥーの主ただ一人と昔ッから決めてる、何を言い出すんだ無礼者」  そう言って、あれっ? と短く叫んで眉間に皺を寄せるなり、たちまち真っ青に青ざめた。 「かかかかか帰る」  強く首を振って後退り、椅子を足に引っ掛けて派手に転んだ。その動揺ぶりはなかなかのものだった。 「こここここんな現実はあり得無い、承服し難い、理不尽だ、ひどい、私は恋人ってのに人一倍夢も希望も憧れもある、ほほ惚れた男のタトゥーを刻むんだ、冗談じゃない!」 「帰るって、何処にだ?」 「ミアムに決まってるでしょが! 父さんが待ってる!」  こんのバカやろめ! と周子はギャランの問いに勢い良く怒鳴り返し、カズマはミアム、と呟いてギャランを見た。  己が耳を疑うといった困惑の表情で視線を寄越したカズマに、 「ミアムの召喚の種だと言ってる、おれの許へ召喚された」 「まさか、いくらなんでも五ひゃ……」 「カズマ」  ギャランがその言葉の先を遮った。  おれの許へ召喚されたですって? ギャランの言葉にざばりと黒髪を逆立てた周子の表情は噛み付かんばかりの形相で凶暴な野獣そのものだ。 「召喚されてないから! あんたのトコになんか! 死んでも!」  吼えた。  死んでも、って、とカズマは突如ムキになった周子の子供臭い言い草に呆気に取られた。 「なんと粗野で凶暴な。まるで獣のような女ですね」 「座れ。その傷、そのままでは帰れまい」 「構わない、ほっといて」  ギャランの言葉にぷいっ、と顔を背けた周子だったが、 「座れっつってんだろ」 「なんてこと言うのっ!」 「……なんてことって、座れとしか言って無ぇぞ?」  悪気のないギャランの言葉に、周子は、ッ、と明らかに反抗的な舌打ちをして。  殺気をみなぎらせながら、だがそれでも周子は再び椅子に尻をつけた。  反抗と従順のせめぎ合う、どこか奇妙な周子の様子を、一歩引いて冷静に無言で見ていたカズマだったが、周子の傷口に手づから消毒液をかけたギャランが、顔を顰めるなり瓶を取り落としかけたのにハッとした。 「王?」  ギャランのその指に深い噛み傷があるのを見、カズマはたちまち表情を強張らせた。  あれこれと仔細を問い質しかけたその勢いをかろうじて己が喉奥に飲み込むと、カズマはギャランから消毒薬を取り上げ、横から代わろうとしたのだが。  その手を邪険に払って、 「おれがやる、触ンな」  これまでに無いギャランのそんな態度に目を丸くした。 「しかし……どうなさいましたその、手……」 「私が噛んだ」  周子の言葉に、何だと!? とカズマがたちまちその秀麗な眉を般若の如く吊り上げた。 「この男から引き離さないと、殺すわよ、必ず。私、逆上してるもの、すっごくね」 「逆上、ね。つまりはおれが何かしたか?」  ぐ、と周子は唇を噛んだ。 「殺す、絶対殺す」 「滅多なことを言うな」  お前が殺されっぞ、とギャランは、ムッとしたように再び間に割って入ったカズマの腰を一度ばしんと強く払って。カズマを斜めに睨み上げた。  その眼差しに、カズマは露骨に不可解な表情をした。 「一体全体どうなさったのです? 王がそのように気安く他人を寄せるなんて。この十年、一切無かったことではないですか。血に塗れた奇ッ怪な女を拾ってきたかと思えば、その世話につきっきり、まるでらしくない」 「縫った方が良いか?」  ギャランはカズマを無視した。 「無理。刻んだ名に手を加えることは許されない。この傷は特別。治癒呪文も無効。ほっとけバカ」 「バカ!?」  無礼者、とカズマが横で凄んだ。 「手を出すなと言っている、カズマ。口もだ」 「しかし! 王が手づからこのように処置を為さるなど。あまつさえ王に対する数々の暴言、これ以上の不敬を許すわけには参りません」 「いいっつってんだろが! 耳ついてねえのかその耳は飾りかただの穴か!」  突如苛立ちを露わに怒鳴りつけたギャランの迫力は相当なものだったが、粘土詰めっぞ、とそのあとに続いたセリフには、周子は思わずががく、と脱力した。  ひどく珍妙だった。  少し頭が弱いのかもしれない、手づから巻く包帯の丁度良い強さには感心するけど、と周子は思った。  周子は再び席を立つと、スカートのポケットに手を突っ込んだ。  先ほどからポケットの中でごつごつした存在感を訴えている魔石を探って。  お気に入りだったレザーのミニタイトを汚した血が、すっかり乾いて赤黒くこびりついているのをもう一方の指先で軽く擦り、少し唇を尖らせた。 「とにかく。この召喚が事故である以上、私は帰る。召喚も知らん貧乏人相手にしても話にならんって思ったけど、ひょっとしてあんた達はこの、テレポ石っていう魔石も知らないの?」 「貧乏人?」  カズマの訝しげな復唱にギャランもおや、という表情をした。 「周子、お前はおればかりか、この男も知らんのか」 「呼ぶな」  気安く私の名を呼ぶな、と周子はギャランを睨んだ。 「そもそもあんたが名乗ったのがいけないのよ、百歩譲って私の真の名を知り得たとて、なぜそう迂闊に己が名を明かす、通り名があるだろが。なんと思慮の浅はかな男か、ああそうよ、ほんっとにバカ者、馬鹿だわ。返す返すも腹立たしい、こんのばか者が!」  カズマが怒りに息を詰めた。 「女、貴様いい加減に……」 「バカをバカと言って何が悪い」  スカートのポケットに突っ込んだ手を引き出して、周子はぎょっと小さく飛び上がった。 「テレポ石じゃ、ない……」  周子がポケットの中から取り出したのは、空間を移動する効力をもつ赤く透いた魔石、召喚時に利用するテレポ石ではなく。  真っ黒な大振りの石を嵌めた、呪いの指輪、だった。 「い、いつの間に……どういうこと?」  何もはまっていない左手、その薬指に残るかすかに白い環の痕と、今利き手に握っている指輪とを交互に見比べ、周子は震える声で問うた。 「ギャラン……私、あんたに会ったときから、ずっと、こんな手だった?」 「手?」 「指輪をしてたかしてなかったか……」  ギャランは、していなかったが、と端的に答えた。 「じゃあ、ロレンスって、誰!」 「え?」  召喚じゃないの? と周子は叫んだ。 「召喚ならテレポ石があるはずだもの、私はロレンスに召喚されたんじゃないの?」 「じゃないの、って言われてもだな……」  混乱の色濃く周子の狼狽する様子を前に、ギャランは困惑したまましばしの間沈黙していたが、やがて、理解した、と言ってその青い目を細く引いた。 「じゃあ、おれがロレンスだ、確かに、おれは召喚とやらを頼んじゃいない、だが、お前がおれのもとに飛んで来たってこた、おれがお前の召喚主ロレンスとやらだ、ロレンスってのは通り名なんだろ、なるほどそれなら辻褄が合う。丁度いい」  得心がいったように笑顔で、ぽん、と手を打った。 「丁度いい!?」  周子は怒りを露わにした。 「貴様召喚の種をバカにしてんのか! あまつさえ召喚主の通り名を騙るとはおこがましいにも程がある、貴様の命令を受ける理由なぞ微塵も……」  ―――タトゥーの呪は召喚契約よりも上位。命を賭す絶対命令。 「召喚、どころじゃないわ……」  タトゥーを刻まれたというその事実に、改めて周子は魂の芯から震え上がった。 「なんであんたは私の名を知った、ギャラン?」 「なんで、って……」  青い瞳が困ったな、とでもいう風に素朴に、子供っぽく揺れた。  ―――だめだ、怖い、めちゃくちゃ怖い。聞くのも怖い、何より一秒たりともここに居たくない、この男を前にするのが怖い、 「とにかく帰って呪を解かなきゃ!」  くるっと踵を返しドアの方へ向かった周子に、ギャランはおいおい待てよ、と慌てて声を掛けた。 「待て、ですって!」  飛び上がる周子に対し、ギャランはやはり親切な、悪気の無い表情で。 「大体お前、そんなひどい傷で、熱が出るぞ、癒えるまでおれの許にいたほうがいい」  ―――この男はタトゥーを知らない  その効力を明かす気もない。冷静な、商業的視点で以って周子は自分の価値を知っている。ミアムのタチバナ、若い女の身なりではあるが、ミアム一の実力者たる父親修三タチバナが確かにその素質を一族最強と認めた、特別な娘なのだ、そんな最強の魔法使いを、なんでも命令を聞く奴隷として得たと知って、みすみすそっとしておいてくれる人間なぞ此の世にいるものか。  ―――タトゥーの主の命令は絶対。この男の迂闊な命令ほど怖いものは無い 「ミアムに……」  ―――なんとか誤魔化して、とにかくミアムに帰らなくては 「帰るな」 「死ねっ!」  ギャランのその一言に、何かを考える間もなく、一気に血流が逆流した気がした。  攻撃系最上級呪文による青白い超高熱火炎が爆心からすさまじい勢いで放射状に四散し、すさまじい地響きとともに轟音をたて屋敷が吹っ飛んだ。 ---------------------------------------------------------- [tog]9:洗礼の応酬 [「タトゥー・オブ・ギャラン」/長編/連載中] ----------------------------------------------------------  しばらくして。  瓦礫の中に煤やら土くれやら埃やらをごっそりかぶった金髪が、かすかに動いているのを見つけ、周子は小さく安堵の息を漏らした。 「危っな。うっかり殺っちゃうとこだった」  その金髪を探して先ほどからあたりの瓦礫をあちこち掘り探っていた手を、ぱっぱっ、と払って、ようやく見つけたギャランの金髪をむんずと掴み、瓦礫の中から引きずり起こした。ぺちぺち、とその頬を叩く。 「ほら、しっかりしてよ、さすがにタトゥーの呪主を殺したらまずい、ああ手間掛けさせんなバカ……ディオス!」  ぱっ、と癒しの白光が瞬いた。  ギャランは小さくうめくと、身体を震わせ目を開けた。そして身を起こすなり、がはっ、とひとつ大きくむせ、血の塊を吐き出した。不意に痛みが引いて体が楽になったその理由を魔法と悟ったか、周子を見ると無邪気に不思議そうに笑った。 「これ、なんつーんだ? 治癒魔法? すっげえ気持ち良いな。セックスするよりよっぽどイイ気持ち……がはっ!」  顎を思いっきり蹴り上げられて、ギャランが再び地に転がった。 「なに言い出すのよ、こんのスケベ!」  取り合えず命があればいい、このバカあとで半殺しにしたる、と周子は吐き捨て、再びあたりの瓦礫の山を見回した。 「さて、もう一方のご尊体は……っと。ま、あんなメガネ、死んでようがなんだろうが別に構わんけど」  酷薄に笑って、周子はカズマの緑髪を探し首を廻らせ……、  その瞬間、自分の左頬に強烈な衝撃と痛みを食らった、と思ったときには、体が宙を飛んだのを感じた。 「よせ!」  ギャランの短い叫びを聞いたと思ったが、既に意識を手離している。 ---------------------------------------------------------- [tog]10:呪の効力 [「タトゥー・オブ・ギャラン」/長編/連載中] ----------------------------------------------------------  先ず最初に、きらりと光るメガネが目に入った。  カズマが、ためすがめつ自分の顔を覗き込んでいる。目が合った、と思うなり、その顔は慌てたように素早く引っ込んだ。  ようやく意識を取り戻しむくりと起き上がった周子の、青黒く腫れ上がった左頬を改めて見、さすがにカズマはきまりが悪そうに、んんっ、と小さく喉を鳴らした。  ソファの上で身を起こした周子は、すぐ側にスキンヘッドの中年男が日傘を差掛け立っているのを見、ギョッとして。  死人を前にしたかのような面持ちで控えているこの男、スキンヘッドといえば聞こえは良いかもしれぬが、要は丸坊主であって……  周子はしばらくそのスキンヘッドの仏頂面と見詰め合って。 「まだ死んでませんが」  憮然と抗議した周子、途端にギャランが爆笑した。 「坊さんじゃなくて侍従長だ」  そう言ってギャランはまたげらげらと笑う。  唐突に現実感が湧いてきた。  ギャランがしきりにハゲハゲと連発していたのはこの男の頭の所為か、とようやく周子は合点がいった心地がして。 「じゃ、あれだ、ここは寺院かなにかなん……」  いや、僧侶にしてはこの男の私への扱いは乱暴だった、と周子は思った。頑強そうなこの体つきは僧侶というより武人のそれだ、何より、窓から女を突き落とすなんて……周子は眼光鋭く睨み回し、なんで笑うのよ、と口を尖らせた。  見れば、笑い転げるギャランにつられたように、カズマはちょっと口元を押さえてこちらを見ていた。  上品な笑い方だ、と周子は思った。  カズマはすぐに周子の視線を外した。ぞんざいだが気さくに話し掛けてくるギャランとはまるで対照的な、なんだか非常にとっつきにくい男だ、と周子は思った。  カズマが神経質そうに一度己の襟許を引いて、周子に言った。 「ここは私の屋敷です。寺院ではないし、彼はこの屋敷の侍従長です」 「へぇ! 女を窓から突き落とすだなんて、なんて素敵な侍従長のいるお屋敷だこと!」  この屋敷の侍従長だというスキンヘッドの男は、周子の皮肉にも、一層大きくなったギャランの爆笑にも全く表情一つ変えずに仏頂面で突っ立っている。屋敷を、家内を預かる立場には沈黙が何よりの策であることをよく知り尽くした、いわば熟練の従者である。 「ええ。素敵な屋敷ではありました、過去形で」  カズマの棘のある返答に、さすがに周子は数秒押し黙った。 「ずいぶんと、その……」  空を仰いで。  夏の強い陽射しが目に痛い。最上級の攻撃呪文、その強大な破壊力と爆風で以って屋敷は見事に吹き飛んだ。瓦解した屋敷の名残と言えば足下にわずかに残された大理石の床くらいなもので、屋根も壁もすべて、瓦礫の山と化している、周囲の木々も派手に巻き込んだのであろう、爆炎に葉を奪われた丸坊主の煤けた木々があたり一面に倒潰している。 「……やっちゃったわね」  そう呟いて周子は小さく吐息を吐くとカズマを見上げた。  ―――呪いの指輪に邪魔されずに呪文がこうも威力を発揮するのは久しぶり…… 「ちょっと頭に血が上っちゃって……その。ごめんなさい」 「え?」  周子が素直に謝ったのが意外だったのか、数拍間を空けた後、カズマは、ああ大丈夫ですよ、とさらりと返した。 「保険かけてありますから」 「そうだぞ、いまこいつはすんげー機嫌良いぞ!」  な! とカズマの肩に手を置くギャランこそ、ものすごく上機嫌だ。 「お前、おれを知らんのなら、こいつのことも知らんのだろうな? カズマ・フォン・グランツ、ガーナで最も有力な大財閥の御曹司だ。こんな屋敷のひとつやふたつ、吹っ飛んだくらいで痛くも痒くもない」 「はは。私の所有する屋敷のうち、ギャラン様がよく御立寄りになられるこちらの保険をもっと良いものに掛け替えたばかりでして。存外早く恩恵を蒙りました、そこいらの投資よりもはるかにリターンが良い」  ―――屋敷を壊されて喜ぶ人間って……保険金でいくら返ってくるかって利回りを考えるのっておかしくないか?……っていうよりギャランが自分の屋敷を壊すと思っているってのもおかしくないか? 「ああ、その傷、痛みますよね?」  カズマは念を押すようにそう言うと、メガネの奥で冷たく目を細めた。 「剣を下げていなくて幸いでしたね。さもなければ、命は無かったでしょうから。首を折るにはあと一足歩、距離が足りませんでしたしね」  その程度で済んでよかったです、とにっこりと微笑んだ。  ―――こ、この男…… 「おい!」  睨み合う周子とカズマの間にギャランが割って入った。 「あれほど言ったろう、コレに手を出すな」 「押さえは必要ですよ」  返すカズマの声は冷たく、不服そうだ。  遠慮がちに割って入った侍従長が、カズマに低い声でなにやら耳打ちをした。 「……まぁ、仕方ないな。では、準備が整い次第すぐに出立する、準備が済むまでの間、王に御食事を」  侍従長にこう言いつけ、改めてギャランを見る。 「屋敷を移りますよ。さすがにここには泊まれません。王宮からはまた少しばかり遠くなってしまいますが、まあ仕方ないでしょう」 「ふん、王宮から遠くなる分にはおれはぜんぜんかまわんぞ? ンナとこ、もう二度と行かねぇからな!」  カズマはその言葉を無視するように目をかすかに引き細めた。  そしてふと思い出したように、侍従長が一礼して下がりかけた所を呼び止める。 「ほ、保険を。別邸にもすぐに保険を掛けなおしておくように」 「……手配済みでございます」  仏頂面のスキンヘッドの侍従長が表情一つ変えずに返すその言葉に、カズマはほっとしたように微笑んで、余裕を取り戻したのか、ちら、と周子を睨んだ。 「何か、希望は?」 「馬と金を貸して。ミアムへ帰るから。後日相応の手段で以って返却する」 「了解しました。断る理由も無い」  冷静で簡潔な回答は心地よかった。  ギャランよりもはるかに話が早い。従者も衛兵もカズマの指示で動く、屋敷を管轄下に置いているのは確かにカズマだというのは一目瞭然なのだが。  周子は唸った。  ―――確かに、先に手を出したのは私だけれど。目の前のメガネは、見た目にも小柄で華奢な、女の私の頬をこぶしで容赦なく殴り飛ばすのだ。いや、殺す事だって、ためらわずに出来るだろう。よほど、この金髪碧眼を大切にしているに違いない。なんなのこの関係? 「おれは承知しないぞ」 「しかし。彼女はそれを望んでいます。彼女の要求に私は否と答える理由がございません。馬と金、ただそれだけを要求しあまつさえ、後ほど返却するとまで言っています。意外と謙虚で弁えている。振る舞いは粗野ですが、論理的な話には非常に強い、交渉は簡潔、心証も悪くない」  そう言って、ふっ、とカズマは軽く冷笑した。 「当人の望みどおり、さっさと逃がしてやれば良いではないですか。このような大変に気位の高い女というのは、無理に手許に置こうとすると痛い目を見ますよ?」 「ははん、なにやら言葉に深みがあるな」  カズマは明らかにムッとしたが黙って文句を飲み込むと、襟首を正した。そこへ食事が運ばれてくる。  ギャランは足下の瓦礫をぞんざいに払って、床にどっかと座った。 「来い、周子。飯にしよう。食えば気が晴れる」  唐突に発せられたギャランの命令に反応した左腕の痛みを感じて。  ―――なんとかしないと。 「そうね、それ賛成」  周子は短くそう応えてギャランの隣に座った。  隣を見れば、青い瞳がちょっと意外そうにこちらを見つめてくる。そしてにこっと笑って。屈託のない笑みだった。 「初めて意見が合ったな」 「……馴れ馴れしい」  ―――タトゥーに騙されてたまるものか  ふん、と鼻を鳴らして周子は黒髪を揺すって顔を背けた。やがて目の前に運ばれてきた食事に手をつけるなり、 「……っ!」  眉根を寄せた。 「……いひゃい」  痛いやら沁みるやらで、殴られた所為で口中が切れているのが分かった、最悪な気分だった。  ギャランに睨まれ、まあたしかに、とカズマは口の端を下げると、控えているスキンヘッドの侍従長を呼んだ。 「粥かなにかを……」 「へぇ! このごっつい肉の塊はあんた流の嫌がらせかと思ったけどね!」  フォークに突き刺した肉の塊を向けると、面白いほどはっきりとカズマは表情を険しくした。 「大体、あんたが私を殴ったってワケね?」 「こっちは殺されかけてますが」  あら、と周子は小馬鹿にした笑みを浮かべた。 「だからなに? 死んでないからいいじゃない、そもそもこっちは殺す気なかったんだし」 「死んでないからいいじゃない? ものすごい開き直り様だな」 「大体、どっからどう見ても体格の劣る、こんなか弱い女相手にパンチ繰り出すなんて、アッタマおかしいんじゃないの?」  カズマは一度そのメガネの奥の紫瞳を丸くした。 「ははあ、あなたはそのぱっと見小柄で華奢な外見を分かって利用しているのか。余計に始末が悪いな。なんと物騒な女だ、あなたがか弱いなど、もはやこの屋敷の者は誰一人として思いませんよ。私の屋敷を木端微塵に吹き飛ばしてよくもまあそんな台詞が吐けるものだ」 「か弱くなけりゃぁ女でも何でも殴っていいのね?」 「当然でしょう、こっちは殺されかけてるんですよ」  ムッとした沈黙が生じた。 「……ほんと、あんただけはキッチリ殺しとけば良かったわ」  周子は肉を突き刺したフォークをトレイに置いた。  カズマも水を一口含んで唇を湿らせると、手にしていたグラスを置いた。 「やりますか」  カズマの冷ややかな眼差しを受け、周子は挑戦的に光る艶やかな黒瞳を返した。ややして両者静かに立ち上がり……。  そこへギャランが呆れたような声をかけた。 「肉の一つで喧嘩すんなよ?」 「ニクノヒトツっ!?」  素っ頓狂な声を周子が上げた。  しみじみ嫌そうに、周子は目を半開きにしてギャランを見下ろして。 「ほんっとにこいつは頭が悪いわね?」 「主人をけなされて喜ぶ臣下はおりませんが?」  冷静な返答に、周子はカズマをまじまじと見つめ。 「主人? これが? 逆じゃん? あんたがこれの主人なんじゃないの?」  思わず指で隣のギャランを指した。  行儀が悪い、と呟くカズマ。 「彼はこの国の国王です。それは既にご存知の筈ですが」 「国王、ってのは嘘じゃないんだ……あきれた」 「……ですから、彼に仇為す者には私、容赦しませんので。王を蹴り上げるなぞ命があるほうが珍しい。どういうわけか王があなたに非常に拘泥なさるので、これでもずいぶん手加減をしたんですよ。感謝されこそすれ、恨まれる覚えは毛ほどもない」 「感謝? そいつはどうかと思うけどね……」  周子は目を伏せた。いい加減座って黙って飯を食え、と横から声を掛けられて。美味いぞ、と続いたギャランのその言葉に、へなへなと脱力するのを感じて。 「……大変だね」  なんか自分も大変なことになったかもしれん、と周子は思って大人しく座り、カズマを見上げた。 「じゃ、お粥を頂戴?」  ビックリしたようにカズマは紫の瞳をまん丸に見開いて再度周子を見た。 「……。ず、図々しい女だな」  結局、反対するカズマを押し切ったギャランに連行されるようにして、周子は別の屋敷へと移った。そこは周子が爆炎で吹き飛ばした前の屋敷よりもいっそう豪勢な造りの建屋だった。立派な屋敷と手入れの行き届いた広い庭の様子、上等の設えを見て、改めて周子は、このメガネの男が金持ちというのは確かに本当の話なのらしい、と思ったのだが。 「カズマ・フォン・グランツ……世界のお財布、大財閥グランツ家の御曹司、ねぇ……でもグランツ家なんて聞いたことない。それほどの財力の主ならばベース経由というよりなにより、一般常識として私、知ってておかしくないのになァ?」  私を召喚する客はみんな金持ちだもの、そんな周子の呟きに、ギャランはなんだか痛ましそうな、手傷を負った野生の動物でも保護した人間のような表情をした。 「? 何よ?」 「……欲しいもんがあれば何でも言え、おれは国王だしカズマはどえらい金持ちだ」  上からものを言う都合のいいときにだけ王になりやがる、と周子は思った。 「ミアムに帰して」  ギャランは青い瞳を眇めて肩を竦めた。 「……熱い風呂にでも入ってとっとと寝るんだな」  ギャランは、なんで、と呟いて首を横に振った周子の顔を覗き込んで。 「何でって。そら……そんな傷じゃほっとけないだろ。寝ろ。腕の傷が悪化するぞ、まだ痛むんだろ?」  ―――あんたがそう軽々しく命令しさえしなければ痛まないのよ!  周子は黙って唇を噛むとギャランを睨み上げた。ギャランの悪気の欠片もない青い瞳が却って腹立たしい。悪意のない、むしろ善意によるこの仕打ちを、どのようにあしらえばよいのか途方に暮れる周子、たちまち涙を溜めたその黒目にギャランは狼狽えた。 「ねねね寝れないんならおれが一緒に寝てやってもい……あたっ」  一発平手を張って。 「ギャラン」  頬をさすりさすりこちらを量って来るその眼差しに、周子は言った。 「昨日あんたが言ったこと、撤回してくれる?」 「何?」 「召喚契約において、召喚の種の拘束を望むことは許されない、これ原則。だから、帰るなって言うのは無し、一言、撤回する、って言って」 「言わなければ?」 「すごく怒る」 「撤回する」  ギャランは早かった。反射的ともいえる速さでそう答えて寄越したギャランに周子は安堵の息を吐いて。 「ま、あなたは召喚主じゃないから命令を聞く必要も無いんだけれど」  ―――本当はタトゥーの主の命令だからだ。それこそ撤回させないとこっちが死ぬ、 「お前に怒られると堪える」 「ええ、九分殺し」  あの指輪がなけりゃいくらでも呪文が出るわ、と周子は笑った。 「ハートがだろ?」 「は?」  つれねぇ、と目を潤ませたギャランを、まるで新種の生物でも前にしたかのような表情で見た。 「ねぇ、ギャラン、どうしてあなたは私の真の名を知っているの?」 「ああ、その件だがおれはがんばったぞ」  だめだ、言ってる意味がわからない、と思うなり、カズマが慌てた表情で飛び込んできた。 「ギャラン様、王宮に戻られるのでしたら、なぜ一言声をかけて下さらなかったのです! お供しましたのに!」 「やだね。お前連れてったらあっちこっち連れまわされて新国王様のお出ましダー、ヒカエロー、になるだろ」  ぷい、と顔を背けたギャラン、周子はその首筋がひどく汗ばんでいるのに気付いた。見れば額に汗が滲み、金髪も湿気っている、どうやら王宮まで馬を駆って来たようだった。ギャランは、ちょっと疲れたように首をグリグリと回して、 「おれは王なんざ真っ平ごめんだ。わざわざ臣下の者どもに拝ませてやる面もねぇ」 「そんな……せっかく王宮へ」 「茶。片道で三時間掛かった、王宮から遠い分にはおれはウェルカムだがな、さすがにくたくただぞ。ま、おれは周子マイラブのためにがんばった」 「は?」  さすがにカズマも眉を顰めた。  畏まった様子で冷茶を運んでくるその男が仏頂面のスキンヘッドなのがなんとも言えぬ違和感だったが、どうやら邸内ではこの男が最も重用されているらしかった。  周子はギャランがマイラブ、といって差し出してきた羊皮紙を嫌そうに受け取って。 「今日は朝から見かけなかったけど、出かけてたんだ?」 「一日おれの姿がなくて今更気付いたのか。淋しくなかったのか」 「無いよ全然」  ギャランはがっかりした表情になったが、みろ、と催促した。嫌いだと公言する王宮までわざわざ自身で出向いたその理由はまさにこれのようだった。 「あ……」  ギャランに渡された羊皮紙をといて周子は小さく驚きの声を上げた。  それは、肖像画とまではいかないが、緻密に描かれた、人物画だった。  つややかで長く、さらさらとしたまっすぐな黒髪。何処か世俗を超越したような、血の気を感じさせない白皙の頬。軽く引いた形の良い唇には何の感情も含まず、ただ冷たく陰鬱な、それでいてこちらをからかうような、何処か挑戦的な、色気のある黒い瞳ばかりが印象的である。 「王宮で、おれは前にこの絵を見た、そしてお前を見た瞬間、ああお前だと思った」  ギャランは大真面目な表情で一度腕組みをし、うーむしかし、と唸った。 「髪と目の色はおんなじだが、こっちの方がずっと年上に見えるし、お前はどう見ても感情的で勝気だ、こんな冷たい無表情はしないだろうしな。それにこっちのほうがよっぽど端正な顔立ちで眼差しはぐっとずっと妖艶な……ああ、若返りの魔法か何かか!」  周子は、羊皮紙の人物画をしばらくの間見つめた後、大きくはあ、と息を吐いた。肩を落とし、ギャラン、と呟いて頭を抱えた。 「この画を見て私だと思ったと。別人っていうか、単に黒目黒髪なだけじゃん、黒いからって一緒くたにすんな。よっく見ろ」  大体、下に名前が書いてあるでしょうに、と呟いた周子に。 「字ィ? ああホントだ。シュウ……シュウゾウ? 修三、かよ。あれ? ああ、まあ、シュウゾウもシュウコも、まあ大して違いはないがな?」 「違うわよ! 大違い!……周子ってのは、ひょっとしてあてずっぽうだったわけね。適当に呼ばれた名がビンゴするなんて! しかも、あのタイミングであんたが名乗りやがった。なんて災難な!」  いっそ死んだ方がまし、周子は大げさにそう言って天井を仰いだ。 「さすがあれだ、運命の相手ってのは見りゃ分かるってやつだ」  周子はつくづく嫌そうにギャランを見た。 「しかもさーギャラン、それ男だよ? 私は女、見てのとおり。見て分かんないとかほざくと殴るわよ。で、修三って誰だか分かる?」 「誰ってそりゃ、お前の言うとおりなら修三は修三だろ? うへえ、これで男か。ずいぶんと美麗な男だな」 「かっはー、コレだからバカは、頭がまわらんっつーの! それ、父。私の、血のつながった、実のお父さん」  ビックリしたように、ギャランが周子と画を見比べる。 「こんな美麗な容姿に、何を混ぜればこんな粗野な娘が……うがっ!」  短く叫んだカズマの制止より先に、周子の手の平がギャランの鼻つらにヒットした。 「ミアムには、タチバナの血、っていう黒目黒髪の万世一系の家系がある、父はその中でも稀代の術師と言われた腕利きよ。それに、腕に名前が無い。未隷属の、この世で最も自由で崇高な魂、一族で最も強く、誰にも隷属しない、まさに名実ともにいい男よ、あんた如きにとやかく言われる筋合いは無……」  ふと、周子は言葉を切った。  その表情がみるみるうちに曇った。 「……それが、それが、修三だなんて、名前が入った絵があるってどういうこと」  取り乱すように縋りついた周子に、ギャランは面白くねぇ、と唸った。 「ではおれとその父親と、どっちがいい男だ」 「私は父さんがどうしたのかって聞いてるのよ!」  答えろ、とキッパリと一言、厳しくギャランに命じられて周子は歯軋りをした。 「父さんは頭も良いし、優しいし、ムダ口もきかない。あんないい男、改めて考えてみても今まで見たことが無い、たぶんこの先も。たっはー、間抜けにも鼻血たらして、それのドコが、一体なにがイイ男よ」 「鼻血はおめぇの所為だろ! おれの鼻を打ちやがって」  カズマに渡されたハンカチで鼻を押さえ、滴る鼻血を拭いながら、ギャランが言い返した。 「父さんが真の名を明かすなんてあり得無い。そんな画が王宮の資料室にあるとは一体どういうこと……」  周子は羊皮紙を掻き抱き、ひどく取り乱して。ミアムに帰らなくちゃ、とソファから立ち上がりかける。ギャランがその手を強く引いた。 「離してよ、ギャラン」  興味深げにカズマが小さく息を漏らした。 「王、外見には絶対の自信をお持ちのあなたを、こうも袖にする女がいるとは驚きですね。王が、これほどまでに心を砕いて側に置くと仰っているのに、まるで無視ですか。このパターンは初めて」 「るせ! 傷口に塩をすり込むようなこと、言うな! 周子にキライだと言われるとなんだかえらく傷つく気がするぞ!」 「……まあ、こうもストレートに無礼な口を利く人間は私も初めて見ました」  ギャランの言葉に、カズマは苦笑して。 「はは。この下賎の女、こんな調子で一体いつまで命があるものかな」 「! だっから、こいつに手を出すなっつってんだろが。カズマ」  たちまち物騒な微笑を浮かべたカズマにクギを刺すと、カズマは苦々しい表情になった。 「王、なにやら非常に、かつてないほどの拘泥ぶりを感じますが。万事に鷹揚なあなたが、こんなに執着するとは大変に珍しいことです。こんな無礼な女の一体何処をお気に召したと。いくらなんでもそれはお戯れが過ぎます。なぜこの女にそれほどに構うのです」 「なんでって……」  ギャランは上手く言葉が見つからないのか、答えあぐねて沈黙した。  なにが外見に自信よ、と周子が口を尖らせた。 「そんな派手なド金髪のどこが? 父さんの方がよっぽど、よーっぽどいい男だわよ」  ギャランが金髪をざばりと逆立てた。 「おま、おまおまえ、自分の父親ほめてっとろくな恋愛できねぇぞ!」 「結構」  目を伏せて腕組みをし婉然と微笑む。 「私、父さんよりいい男って見たことないもの」  そんな周子にギャランは、すげえあったまくんなー、とこぶしを虚しくにぎにぎさせながらひとしきりぶつぶつと文句を言って。  それからふと、首をひねった。 「それにしちゃお前、さっきから、帰る帰るって言ってる割には帰らねぇな?」 「!!」  顔色を失った周子に、くっ、と失笑したカズマ。  やはりね、と一人頷いて。 「あなたは王の命令に過敏なようだが?」  そう言って周子を見た。 「逃げられないのでしょう」  竦むように呼吸を止めた周子の気配に、確証を得た、といった風情でカズマはひとつ頷くとギャランを見た。 「この女の腕に刻まれたあなたの名といい、言い当てられた己の名に非常に拘泥している様子といい、つまり察するに、一族の掟か何か、何らかの理由で、名を言い当てられるとその当て主の名を腕に刻まれ、その者に隷属するということではないでしょうか?」  はっきりと明言した。 「あなたの命令を聞く義務は無いといいながらも、あなたの命令を警戒し、むしろ怯えている、つまりはあなたの命令には明らかな効力があるということです」  びゅっ! と応接テーブルの上のグラスがカズマ目掛けて飛んだ。  冷茶をざんぶりと頭からかぶったものの、カズマは冷静に頷いた。 「ほう、図星だったようです。たしかに……例えば呪文のように、言霊を操る能力をもつ種族は名を呪(しゅ)のキーにすると聞いたことがあります」 「このっ……!」  カズマに勢い良く飛び掛り、馬乗りになって首を締め上げようとした周子のその腕を強く引いて、ギャランが取り押さえた。落ち着け、とでも言わんばかりに、その身体を後ろからぎゅっと強く、確かに抱きしめる。  身に覚えのある、強く確かなその感触に周子はどきりとし。  唐突に甘く切ない痛みが、背筋を貫き火花のように全身を駆け巡った。 「図星なのか?」  ぷい、と顔を背ける周子の頤に手を掛け、ギャランは自分のほうを向かせた。 「隷属、ってのはつまりはその腕の名の主、おれの命令なら何でも聞くってことか?」  周子はまっすぐに覗き込んでくるギャランの強い青い瞳から目を背け、沈黙した。 「答えろ」  ギャランの命令に呼応する呪の反応、左二の腕にずきりと熱い痛みが走るのを、この男当人を前に、周子は認めるわけには行かなかった。 「答えろ、と言っている」 「いやっ! 死んでも認めない!!」  はっ、とギャランが息を飲んだ。 「タトゥーも認めないし、あんたがその呪主だって事も絶対に認めない!」 「……答えなくていい」  あきれたようにギャランが呟いた。 「呪ってのは、命令に抗えば死ぬのか。どんどん顔色が悪くなってきやがる、呼吸が荒くなっ……おい」 「…………」 「おい! しっかりしろって!」  慌ててがくがくと揺するギャランの腕を離れ、どさりとソファに横になる周子を見て、ギャランはぶるりと身を震わせた。かろうじてその息があるのを確認して。 「隷属のタトゥーだと? おれはそんなもの望んだ覚えはないぞ?」 「そのおつもりが無くとも、刻んだのは確かにあなたのようです、ギャラン様」  カズマは冷静に頷いた。 「召喚されればどのような望みも叶えるというミアムの召喚の種、それも、私の屋敷を吹き飛ばすほどの威力を持つ魔法を使うことができるとは。しかも、彼女の言動から察するに、契約で結ぶ召喚が一度きりなのに対し、タトゥーの呪主による使命の遂行は無条件かつ無制限のようです……なんと貴重な……ミアムの種を奴隷として懐飼いに出来るとはまたとない幸運かもしれません……」  おれは今まで周子に何を言ってきた? とギャランは口許を押さえた。 「こんな……やな気持ちは初めてだぞ、カズマ」  ギャランが怯えた声を出した。 「おれの不用意な命令一つで、こいつは死ぬんだぞ」 「そうですね」  ゆっくりとうなずいたメガネが、計算高くきらりと光った。 「……では、お言葉を、口に出す前に、一度吟味することをお心がけになってはいかがでしょうか。そもそも、王は率直過ぎるほど率直ににものをおっしゃるご性格でございますゆえ。思慮深い御言葉を述べられますこと、それは王として、私はじめとする多くの臣下が何よりもまず最初に、ギャラン様に望むことでございます」  攣れるような気配が走った。 「だっから! おれは王ナンザごめんだ!」  ギャランはおもむろに羊皮紙を床に破り捨てると、ランプの火種をその上に放った。ぼんやりと炎が揺らめいて羊皮紙を舐めていく。燃え滓を足で踏み砕くと、派手に焦げた絨毯をがつりと一度蹴って、苛立たしげに、ふん、と鼻息一つ、部屋を出て行った。 「珍しく、本気で怒りましたね。怒りも程度が過ぎると、あの方は黙ってぷい、といなくなってしまうんですよ」  スキンヘッドの侍従長からタオルを受け取って、濡れた髪を拭きながら、カズマは静かに笑う。その口元はたくらみの色を存分に含んでいる。 「どういうわけか、あなたを失うのがよほど嫌なようです。周子、ここはひとつ、私に力を貸していただくことにしましょうか。ひょっとすると、あなたを使えば、王は動くかも知れない」  カズマは静かに微笑んだ。 「どんな手段であれ、あの方をこの国の王としてふさわしいお姿に奉り上げること、それが私の為すべき仕事でしてね」 「嫌」  周子がソファの上に横になったまま掠れた声でそう言うと、カズマはふん、とどこかあざ笑うかのような相槌を返した。 「悪いようにはしませんよ?生憎すぐにはミアムにお帰しするわけにはいきませんが、こちらでの生活は私が保証します。あなたが私に力を貸してくださるのなら、どんな贅沢もお望みのままに叶えましょう。天下のグランツ家による身分保証がどれほどに有用なものか、きっとご満足いただける筈だ、我がグランツ家の名において、財力権力のすべてをお望みのままに行使いたしましょう、これほど好条件の取引はまたとないはずです」  周子はがばっと身を起こした。 「だから、いやだ、って言ってんのよ! あんた、ばっかじゃないの! あの男が王になんかなりたくないって言ってるのが聞こえてないの? あんたさ、自分の好きな相手の嫌がることして楽しいの? とんだ変態野郎だなっ!」  唐突にものすごい勢いで切ったその啖呵に、驚いたのはカズマばかりではない。カズマの側に控えて立っていたスキンヘッドの侍従長、日頃は仏頂面を貫いて表情を変えぬこの男もまた、このときばかりは心底驚いたように両目を見開き周子を見つめた。 「それにねぇ、あの男は、他人を使ってどうこう手を回す、そういう回りくどいことが嫌いだわよ! もしも、もしも本人が納得して、その気になれば、あっさり国王にだって、神にだってなるような男よ! 多分私が頼んだって嫌なものは嫌、そういう男よ」  ミアムでの事までもが一気に脳裏に浮かんで。 「私と一緒よ、私だってね、何も好き好んで今の今まで未隷属だったわけじゃないわよ。好きな男が出来たら刻むってちゃんと思ってたんだ」  何の話だ、とカズマは眉根を寄せ掛け……。  カズマがベースの嫌なところに重なるのを見た周子は、絶対あんたの言うことなんか聞かない、と断言して、ソファから立ち上がると、カズマのグラスを取り上げ、拭いたばかりのその頭に逆さにぶちまけた。ギャランが口をつけていた琥珀色のバーボンもついでに頭にぶちまける。  そしてびったん! と強烈な平手を一発かまし……周子は部屋を出て行った。 「なんなのあのメガネ! なんでも自分の思うとおりにコトが運ぶと思ったら大間違いだわ」  怒りに任せて足音も勇ましく、与えられた自室へと戻るべく廊下を歩いていたのだが。  闇の中から不意に伸びた腕にがばりと抱きすくめられ。 「はうあっ!?」 「しっ」  窓から差し込むほのかな月の光に輝く金髪を見て、周子は驚きはしたものの身体の硬直を解いた。泥棒や強盗の類ではないことにひとまず安堵する。 「お前、いい女だなぁ」  間近で見る青い二つの目が上機嫌に光っているのを見て、周子は首を捻った。 「あんた、怒って出て行ったんじゃなかったの? 覗き見? 盗み聞きしてたの?」 「ああ、相当カチンときたんだが、なんか気になって。お前、カッコいいなぁ、あれ見てたら、機嫌がなおったっつーか、惚れた?」 「は?」  思いもよらぬ言葉に周子は眉根を寄せる。 「あのカズマが言い負かされた挙句、平手を食らうのなんざ初めて見たぞ。明日の朝になって、ベッドの上に、自分の首が切り落とされていてだな、頭と胴体が二つに離れていたとしても、おれは知らんぞ?」  周子は目を剥いた。 「ああ、やりそう! あのメガネ、そーゆーの、やりそう!」  うん、とギャランは頷いて。だから一緒に寝よう? と周子を抱きしめる手に、ほんの少し力をこめる。その意図するところが正確に伝わる、絶妙な力の具合だった。慣れているに違いない、と周子は思った。  周子はギャランのその胸を邪険に押したが腕は緩まなかった。壁に背を押し付けられ、ギャランの顔が間近に迫る。 「おれはお前のタトゥーの主になったようだな?」 「ばれちゃ仕方ないや」 「召喚とは、違うものだな?」 「ええ。特別。召喚よりも上位。いわば私の体の所有権はあなたに委譲された。どんな悪事でも、やれと言われれば従うわ、私、強いわよ」  分かった、と答えたギャランの声は優しく甘かった。 「お前を大事にする」 「ちょっ……」 「お前は、その腕に好いた男の名を刻むつもりだったのか? 惚れた男の」 「ええ。おかげで私がどれほど落胆したか」  落胆、とギャランは苦笑した。 「おれはラッキーだな?」 「死を願っているのならラッキーね、すぐに殺してあげる。ああ、ちっくしょもういっそぶち殺したいや……その股間を押し当てるな変態」  太腿の辺りにぴったりと押し付けられている熱い塊が不愉快極まりなかった。 「惚れたと言っているだろう? お前を抱きたいんだ」  熱い息、ああ、男ってのは欲情するとこんな息を吐くんだ、と周子は唐突に知った。 「お前を抱きたいんだ。こんなに気が急いたことも無い。言葉を尽くして口説くほど、今はそんな悠長な気分じゃない」 「っつーか、あんたの言葉はすぐ尽きるでしょ! 大体、バカなんだから」  とにかくおれと寝よう、悪いようにはしない、と口説くギャランの頬をきつく抓って。 「もう十分に悪いようにしてるじゃん、離れろエロ国王」 「……たく、つれないな……」  頤に手をかけられ、上を向かせられる。近づくギャランの唇が、触れる直前でぴたりと止まる。周子の、まっすぐで勝ち気な黒い瞳に射られて。  周子は自分の黒目の強さを熟知している。  抜群の交渉力と度胸、それは自分の持って生まれた素質の中で最も信頼できるものだ。魔力よりも、呪文よりも、はるかに。  まっすぐで勝ち気な黒い瞳で射抜かれてぴたりと動きの止まったギャランに、周子は冷静に、突き放すように言葉を添えた。 「タトゥーのこと、理解したんでしょ。だったら一言、犯らせろ、と命令すればいいじゃない」 「……なんだと」  明らかにムッとして、ギャランは傾けていた顔を上げた。 「タトゥーの呪は抗えば死ぬ。だったらこの体、好きにすればいいじゃない、うっかり呪が発動したのは、つまりは私がドジ踏んだって事だもの、その代償だと思ってあきらめるわ。だけどねぇ、だからってねぇ、私の心の主にまではなれると思ったら大間違い」  周子はおもむろにギャランの手をつかんで、自分の胸元に突っ込んだ。 「抗えば死ぬぞ、殺すぞ、と脅して、抱けばいいじゃない。でもね、絶対に、どんなことがあっても、合意でなんてやらないわよ! あんたはこの身体を抱けばいい、たとえ隷属のタトゥーでも、魂までは従わせられない」 「……すっげー、むかつく」  ばっ、とギャランは胸元から手を抜くと周子の体を突き放した。 「このおれに脅して女を抱けと?」  その瞳はひどく混乱している。 「よくも言ったな、無礼者。今言ったこと、覚えとけよ! 明日になって抱いてくださいって泣きついてきても、ぜえええったい、抱いてやらんからな!」 「誰が頼むかばーっか」 「ふんっ!」  ギャランは怒りに肩を震わせ一度周子をぎらりと睨むと、尻のポケットに両手を突っ込んで、廊下の向こうへと姿を消した。  完全にその姿が廊下の向こうに消えてから、周子はほっと小さく息を吐いた。 「ひゃー、あのバカ、やれりゃあいい、って言い出したらどうしようかと!」  はは、と渇いた笑いを漏らし、自分の度胸がさほど弱っていない事を確認して。  ―――この忌々しき隷属のタトゥー。  ギャランに抱きしめられた身体が、熱い。惚れ薬だと、そんな上手い喩えを誰が言ったか。己の腕に刻んで初めて周子はその意味を知る。  巧妙な罠だ。タトゥーの呪主の望みなら何でも叶えてやりたい、命令というより、むしろそれこそが周子の望み、恋情に似たその内なる衝動のなんと強いことか。  知れず漏れた己の熱い吐息に、周子はぞっとした。 「解かなくっちゃ」  まるで毒のようにじんわりと身体に広がりゆく甘い痺れにも似た恋情をねじ伏せ、周子は強く黒髪を振った。気を取り直すかのように勢い良く腕をぶんぶんと振り回し、自室への廊下を進んでいった。 ---------------------------------------------------------- [tog]11:割線 [「タトゥー・オブ・ギャラン」/長編/連載中] ----------------------------------------------------------  罵倒された挙句に痛烈な平手を食らい、穏やかならぬ気持ちで眠れぬ夜を明かしたカズマは、ようやく白々とした朝を迎えると、ダイニングへ飛び込むなり周子の名を呼んだ。  その声に表情を険しくしたのはギャランである。 「ほおーん? いつもならまず、おれの姿を見るや、おはようございますギャラン様、だろ? 今朝はよほどあの女が気がかりと見えるな」 「おはようございます、ギャラン様、今朝はお早いようで」  棘のあるギャランの言葉にカズマは恐縮して、衣ずまいを正すと一礼した。  ギャランはといえば、ダイニングテーブルの上に足をどっかとのせてだらしなく椅子にのけぞり、ゆらゆらと揺らしている。朝から不機嫌丸出しの様子である。 「そんなことしてると、そのうちがたーん、とこけますよ?」 「うるせ」  侍女に出された紅茶をカズマは一口すすって。ギャランのそんな様子を見、こちらのお方もひょっとすると寝ていないのかもしれない、と思った。 「どうなさいました、機嫌悪いですね? 朝から」 「どうしたもこうしたも無ぇ、あれが奴隷だと? おれは要らねぇ」  軽く指を広げた己の利き手をぼんやり見つめながらギャランが答える。  それが周子のことだと察したカズマは、侍女に顔を向けた。 「では、先だって用意した馬と荷物一式を玄関先へ置くように。今すぐ」 「だから勝手に処分すんな、って!」 「要らないのでしょう? であれば私、彼女をあるべきところに帰しますが。うはうはで。晴れて厄介払いが出来ます」  ギャランが面白くなさそうに、ぐう、と唸って首を横に振った。 「おはよ。朝からなに? 私をどこへ捨ててくるかの相談?」  周子は笑って、ぐっ! と親指を立てた。こちらは朝から上機嫌である。  どうやら外を走ってきたらしく、額に汗をかいている。白い頬が上気し、かすかに乱れた黒髪、なかなかに可憐な姿だった。 「これはまたずいぶんとさわやかな」 「そう、朝早くから走るといい気持ちよ」  にこにこと答えた周子の背後から、遅れて入ってきた仏頂面の侍従長がぬっと顔を出した。こちらも走ってきたのか、だが周子よりもはるかに疲労の色濃く、しとどに汗をかいている。 「……脱走ですよ」  スキンヘッドの侍従長が、いつもの仏頂面をさらに不機嫌そうに顰め、低い声でうめいた。  軽く肩を竦める周子。 「このおっさん、案外えらく体力あるのよね、逃げても逃げてもしつこくって」 「脱走なぞ二度と試みてくれるな」  侍従長が周子を睨んだ。朝から走らされるこちらの身にもなってくれ、と言わんばかりである。 「エンギワルー、よくやった」  カズマより先に、ギャランが労をねぎらった。  ギャランの言葉に、カズマはギョッとして。短い言葉ではあるが、ギャランが他人をねぎらったのを初めて見たのである。  周子もまた汗を拭いかけたタオルを取り落とした。こちらはカズマとは別のところで、ギョッとしたらしい。 「え、エンギワルー? すごい名前ね、やっぱお坊さん? いや、坊さんじゃ余計に縁起悪くて商売にならないか」 「……商売になるならないという表現はそもそも僧侶には不適切ですが」  そう断って、四十数年生きてきた中でもう幾度となく繰り返されたか知れぬ、己の名をめぐる問いの答えを、侍従長はまた繰り返す。 「文字通り、縁起が悪い名でございましょう、これを冠することで負の威光を借り、私の身を守ろうと。私に手を出せば、死の制裁が待っている、と、まあ、そんな親の願いが込められているものでございましょうな」  無論自分は僧侶でもない、とエンギワルーは渋い声で補足した。 「ふえ、すごい名前。親の願いってのと死の制裁って言葉がこう並ぶところがありえないけど。ま、でもそのスキンヘッドも見慣れれば、渋くて素敵かもね」  エンギワルーの血筋はかなり名のある武人の家系であり、ゆえにその無事を願っての忌み詞的な名をつけるのが一族の慣わしなのだと聞いて周子はなるほどと妙な納得をした。 「渋くて素敵だと? お前、男を見る眼がねぇな! おれの方が余程いい男だろうが!」  口を挟んだギャランに、周子はいかにも嫌そうに黒目を半目に伏せて。 「そこのエロ金髪、視界に入ンな」 「おれの金髪はこのハゲより劣るってぇのか!」  エンギワルーが無言でギャランを見た。ハゲですと? とでも問い正したそうな無言の圧力に、ギャランはさすがにまずいと思ったのか、んん、と軽く喉を鳴らして。 「ちなみに、息子はコンジョナシだな」 「さよう。骨のある男になるようにと、私がつけました」  ―――それっておかしいよ!  周子は口を飛び出してしまいそうになる言葉を慌てて飲み込んだ。  ―――自分が親に勝手に付けられてしまったのはしょうがないけどさ、自分の子供に根性無しってのは非道くないか? このぶんだと、この人の一族って、みんなこんなノリの名前だったりするのか。  だがエンギワルー当人は、息子の名に誇りを持っているらしく、良い名でしょう、とにわかに機嫌を良くした。どうやら息子の事を出されるとたちまち態度が軟化する気質の男のようである。 「王が、私の息子の名をご存知だとは、意外でしたが」 「うむ。一度見たことがあるのだ。髪が生えていたので、驚いたというか、印象深かった」 「……………………」 「なんつーか、父子で揃って反面教師みたいな名前を付けてそのうえ丸坊主だと思っていたからな」  エンギワルーは黙ってしまった。そしてそのまま、厨房の奥へと姿を消してしまった。  ギャランはきまり悪そうにちょっと頭を掻いて。 「あー、カズマ、あとでとりなしておいてくれ」 「口から出す言葉はよく考えてからに、と昨夜申し上げたはずです、が……」  カズマもギャランも、それぞれの昨夜の苦さを思い出し、おもむろに口をつぐんだ。  やれやれ、と息を吐いて、カズマは運ばせた朝食をギャランと周子とに勧めた。 「なんといいますか、なんだか調子が狂いますね」 「そりゃそうでしょ。二人っきりの濃ゆい世界にいきなり私が入ってきたんだから。おかしいよ? この関係。いい年こいた大人の男が、なんでこんなお屋敷で二人でべったりなの?」  途端に真顔になったカズマの表情に、周子はあら、と軽く笑って。 「おっけ、聞かない。詮索する気もない。スルーして」 「……なかなか聡明な性質ではあるようですね」  さっぱりと答えた周子の機転の早さに、カズマは感心したように頷いた。  交渉事ならあんたを相手にする方が早そうね、と言い出した周子に、カズマはまんざらでもない表情をした。 「ギャランの望みは何か、聞きたい。知っているのなら教えて」 「理由を」 「タトゥーの呪を解く。おたくだって、輝かしい未来ある王様とやらにこんな小娘がくっついてるのは嫌でしょ」  ほう、とカズマは興味深そうに微笑んだ。 「あなたを従える王を傷物と? 自分を貶めてまで交渉するつもりか?」 「そのくらい私には大事なの。召喚の種を手放すに相応しいだけの代償を与える、それがタトゥーの呪を解く唯一の方法。何でも願いは叶えるわ、命がけで、どんな無茶な願いでも。だからタトゥーを解いて自由にして欲しいのよ」 「それは無理な話だな、最初からおれには望みは無いと言ってるだろ」  そう口を挟んだギャランだったが。 「……あ、泣かした」  カズマの指摘にギャランはひどく狼狽えた。 「た、タトゥーがあろうがなかろうが、おれはお前に悪いようにはしない」 「嫌なのよ」  い、嫌ってそんな……とギャランは途方に暮れた表情をした。 「ととと、とにかく、お前はおれのものだ。おれが見つけたんだ、タトゥーの代償にその身の安全も衣食住も、お前の望むことすべて叶えてやろう、おれの名にかけて。だからお前はおれのもの……」 「嫌だって、言ってるでしょう」  周子はギャランを見た。  ―――お前の望むことすべて、叶えてやろう……タトゥーを刻まれたのだ、呪主の言うことなら何でも聞く奴隷たる立場の、これが、自分が言われるべき言葉か? 呪主の望みを叶えるために命を賭けねばならぬのは、真の名を知られてしまった自分の方である筈だ。 「私の相手はロレンスだって、決まってる。ロレンスの所に行かなきゃだ」 「お前言ったろ、召喚主よりタトゥーの呪主の方が上位だって。今更ロレンスなぞ……」 「私、ロレンスと婚約したんだった」  カズマが軽く紅茶を噴き、ギャランの落としたスプーンが床上で甲高い金属音を立てた。 「五千万ゴールドで」 「五千万ゴールド!?」  ギャランは目を剥いて、ばん、と勢い良くテーブルに手を突き立ち上がって。 「おまおまおまおま、おまえ、いいいくらなんでもそりゃあんまりな記憶の取り違え様だぞ? 婚約? 契約じゃないのか? 金が絡んでるならそりゃ召喚の契約だろう?」 「婚約よ」  なにもそんなに驚かなくても、と、周子は冷たくギャランの動揺を流した。  昨夜思い出したの、と周子は小さく唸って。 「石を、欲しいって……五千万ゴールドで買うとかそんな話を聞いた。私がこうして持っているんだもの、まだ売ってないんでしょうけど……どうも記憶が欠落してるみたいで召喚前の詳しいことが思い出せない」 「石?」  ギャランの言葉に周子は溜息をついてスカートのポケットに手を入れた。 「魔石。ドランクドラゴンの盟約石よ」  そう言って、周子はテーブルの上にその指輪を置いた。 「それも、呪われた」  呪われた? とギャランは眉を顰めた。  周子はその黒い魔石を指先でちら、と撫でて浅く笑った。  黒い輝石だといえばとおりはよいが、むしろ……こすってすすがつく、立派な石炭だとでも言ったほうがしっくりくる、と思った。  スクエアにカットされた大きな真っ黒な石が、銀の台座に乗っている。リングの部分には文字にも似た細かい文様のような装飾がびっしりと施されている。  手の込んだ、珍しい指輪。まれに大金を投じてでも手に入れたいと申し出る人間がいそうな独特の気配を纏った奇妙な指輪である。  所有主を選ぶ指輪というものはそんなものかもしれない。  それを摘み上げ、窓際に歩み寄り日に翳して石を見るギャランのしぐさは子供じみている。 「魔力を吸うの。私は父さんに持たされた、魔力の制御用にね」  光るな、とギャランは呟いた。  その石は底光りするように、不思議な光を放った。黒い石の底で、金の粒が、まるで星のように瞬き発光している。底知れぬ耽美的な美が、石の底に渦巻いている。 「普通の人なら、持っていても何とも無い。私は魔力をバカスカ吸われて酷い目にあった。できればこのまま手放したい位」  呪の指輪をためすつがめつ日に翳しながら、 「なぁ周子、ロレンスが確かにお前を召喚したというのなら」  ええ、と頷く周子に、 「じゃあ、おれがその婚約者ってことだろう?」  ギョッとしたようにカズマがギャランを見た。 「王、それは論理が飛躍してます」  いいやおれがそれだ、とギャランはカズマを拒んで鼻息を荒くした。 「事実、周子おれの下に飛んできた、それで十分だ、何よりの証拠だ。紛れもなく、おれはお前の婚約者だ、よし決まりだ、これでめでたくお前はおれのものだ」  おれはまじでお前に悪さしない、と続いたその言葉の拙さに周子はまたも脱力した。 「あいにく」  首を横に振って。 「私、ロレンスには一度、会った記憶がある、黒髪の……背が高くて、悪魔みたいにすごく綺麗な人だった。父さんみたいに理想的な外見だった、刻むんならあの男の名がいい」 「また黒髪かっ!」  ギャランはひく、と頬をひくつかせた。  カズマが間に入って冷静に話を区切った。 「まあ、とにかく、周子はロレンスに会ったことがあり、ロレンスが婚約者であるということで、通常の召喚契約とはずいぶん事情が違うということは分かりましたよ。それがどういう事情かはわかりませんが、まあこの場合一番あり得る可能性としては、召喚契約ではなく、嫁に出した、ってところでしょうかね?」  うん、と周子が力強く頷く。 「今ごろロレンスが私を探してるかもしれない」 「……一度会っているなら、お前を探したりはしないだろう」 「どういう意味よ」 「こんな乱暴な女、誰も欲しがるものか、おれ以外」  おれ以外、とくっついてきたその言葉に、カズマはなんとも嫌そうな顰め面をした。 「私、恋人にするなら黒髪がいい」  取り付く島も無い。ギャランは口惜しそうに周子を睨んだ。 「カズマ」 「は?」 「おれの髪は黒く染められるか」 「王、その話は既に論点がずれてます」 「だめよギャラン、頭だけ黒くたって。どうせあんたのそのど金髪、その髪や眉や睫だけじゃないでしょうに。 私、毛という毛は全部黒くなくちゃ嫌、もちろん、あっちの毛もね」  周子の言い様に、カズマがこほん、と小さく咳払いをした。 「あっちの毛、ってなんだよ、じゃあ、ロレンスとは寝たのかよ!」  おれとのメイクラブは断りやがったったくせに! と詰った言葉に、カズマは此の世の終わりを間近に見た、とでも言いたげな表情になった。 「王、まさか、よりによってこんな出自の不明な凶暴女に興味をお持ちか」 「出自なら明らかだろ、ミアムだ、魔法が使える」  カズマは、とんでもないと肩を震わせた。 「絶対にダメです、こんな女」 「もちろんよ、私だってお断りだわ!」 「な、なんで二人して全否定なんだ」  とにかく、とギャランは話を打ち切るようにおもむろに席を立った。 「もし向こうがお前を探してるんなら、向こうの方からやってくるだろ、ああいいさ、せいぜい、王子様を待つがいい、どうせお前は今におれがそれだと気付くんだかんな!」 「あり得無い」 「ええ、根拠無くなぜそのような仰りを」 「……すげー、むかつく」  馬引け、と叫んで部屋を出て行こうとしたギャランに、カズマは遠乗りでしたらお供します、と短く宣言して席を立った。  そんな二人の背中に、周子はふと思い出したように声を掛けた。 「さっきの石、指に嵌めちゃダメよ、抜けなくなるから。返して、危ないから」  そう言って、周子は振り返ったギャランの手許に目を落とし、その左薬指に黒く光る指輪を見た。  一瞬、部屋の空気が冷えた。 「もう嵌めた後だぞ」  ギャランが真顔で言う。 「……普通、指輪を見たら指に嵌めてみるだろう……お前はなぜそんな大事なことを後で言うんだ」  慌ててギャランは指輪を引っ張ったり、左手をぶんぶんと振ったりした。 「王、抜けないのですか?」 「……本当にぬけないな」 「呪いの指輪だからね」  カズマは周子を睨んだ。 「周子、早く何とかしろ」 「しろ? えっらそーに! 抜けないだけで別に何とも無いわよ、普通の人間だったら。そっちが勝手に嵌めたんでしょうが。文句を言うなら私のほうだ、五千万ゴールドの指輪だ、いっそ払え」 「しかたないな」  ギャランはため息をつきながら、だがあっさりと承諾した。  カズマを顧みる。 「カズマ」 「………」  嫌な予感がする、とでも言いたげにカズマはメガネのツルに少し触れた。 「五千万ゴールドだとよ」  やや間があって。 「………払えと?……馬鹿馬鹿しい、誰が呪いの指輪にそんな大金」 「ロレンスは払うと言ったらしいぞ、おれはロレンスには負けん」 「は?」 「お前はそのロレンスとか言う黒髪のわけの分からん男が払える額が、おれには払えぬとでも言うのか」 「…………………」  カズマは明らかにムッとしたようだった。  改めて椅子を引き、席につくと。カズマは黙って懐から手帳のようなものを取り出した。書き込んで、ちぎって。無表情で目の前に座っている周子にその紙切れを押し付ける。  記されたその額面に、周子は思いっきり椅子ごと体を引いた。  ―――! この男は。  大人しく金を出すから、怖い。拒めよ! 「っていうか、金払えってのはただの冗談」 「存じてます」  小切手を押し戻した周子に、 「ですが、ロレンスに払える額が私に払えぬと言われては黙ってはおれません」  メガネのレンズが都合よく反射して表情が見えぬが、声は、ぞっとするほど冷えている。 「では、この小切手を……銀行に持っていけば、即日あなたの口座に振り込まれますから」 「口座、なにそれ」 「口座も持てないのですか」  カズマは低く唸るように小さく咳払いをした。その咳払いに、どこかさげすむような色が滲んでいるのを感じて。 「持てない、んじゃなくて、持っていない、だ。なんか知らんけどすっごい失礼な気がするよその言い方」 「ふむ。そう言って寄越すあたり、やはり頭は良いようですね」  感心したようにカズマは頷いて。  神経質そうな指先がすばやく動き、摘んだ小切手を破り捨て、床に払う。  黙って懐からサイフを取り出すと分厚い束を取り出し周子に渡した。確かめろと言われて、周子はそれを数えて。 「五千ゴールド?」 「十分でしょう」 「……って、万分の一じゃん!」  思わず周子は飛び上がった。 「いきなり値切ったな、この男、すごい愛想もなしで! ああ驚いた!」  カズマは愛想ですか、とちょっと苦笑して、それから、にっこり、と微笑んだ。 「周子、あまり大金を持ち歩いては身の危険にさらされますから、この程度が無難です」  にーっこりと、親切そうに微笑んで、周子の手に五千ゴールドを握らせる。  ―――な、なんかいいように言いくるめられているような気がする…… 「カズマ、違うだろ」  そ、そうよ、なんかいろいろと違うよ、と言いかけた周子の胸元に、ギャランはカズマから取り上げた札束をねじ込んだ。 「女に金を渡すときはこう……げふうっ!」 「どんな女にだ!」  鳩尾に周子の膝を喰らって、ギャランは身体を二つに折って床に落ちた。 ---------------------------------------------------------- [tog]12:ハンズ [「タトゥー・オブ・ギャラン」/長編/連載中] [最終更新日2005/07/21] ----------------------------------------------------------  テラスに面した一面の大きな窓は折れ